2010年5月1日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔16〕シクラメン・下

ホトトギス雑詠選抄〔16〕
春の部(四月)シクラメン・下

猫髭 (文・写真)


その死により結果的に最終選となった虚子の『ホトトギス雑詠選集』は、雑詠の始まった明治41年10月号(第12巻1号)から昭和12年9月号(第40巻12号)までを「中間選集」として出した昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』(全4巻)と、続編として、昭和12年10月号(第40巻13号)から昭和20年3月号までの雑詠を「予選稿」として出した昭和37年の『ホトトギス雑詠選集』(全2巻)の計6冊である。高浜年尾も後者の序文で断っているように戦前の分で虚子の選は終わっており、戦後の分には全く手を触れられなかった。これは象徴的なことだとわたくしには思われる。

人がその死によって動かなくなるように、「ホトトギス」もまた、子規の死、虚子の死によって、何をこの二人の創生者が成し遂げたか、何を後世に託す形になったかを形として後世に残す。虚子は自分の責任分担を戦前として区切った。結果的に戦後は後世に託したということになる。勿論、これらは死によって、生きている者が歴史をゴールから見るという「祭の後」の目から見た不遜とも言える評価になるが、あの人がもし生きていたならという、そういう死者の目が背後にあるように、後を継ぐ者が、駅伝の襷を託されたように繋ぐ思いが、また新たなる歴史になるのであり、「ホトトギス」の場合は、年尾が虚子に「ホトトギス雑詠」の選の続編を乞わなければ、虚子の戦前までの選をすべて終えるという区切りを演じられなかったし、杞陽の一句も残らなかった。年尾は見事に父の生を完成させ、後世としての役割を果たしたと言える。

杞陽は虚子と昭和11年のベルリンの虚子歓迎句会で出会い、「はじめは物を浅く写すことからはじめる」という教えを終生かけて信じて、魅力的な句を数多く残した。虚子亡き後も年尾選を受け続けた。虚子に対する信奉は信奉として、後を継ぐ者、年尾や汀子に対する杞陽の眼差しの暖かさは特筆に価する。

はじめは物を浅く写すことからはじめる」という虚子の見事な言葉は、杞陽が主宰の「木兎」に載せた言葉だが、普通は「徹底的に様々な角度から見ることで他の人の詠まなかった眼目を見つける」というように教わり、「観察」を繰り返す先に「写生」に行き着くと言われる。「物を浅く写す」とは何と見事な俳句への水先案内の言葉だろう。また、何と見事に杞陽の俳句の真髄を射抜いている言葉だろう。いや、俳句そのものの真髄と言っていいかも知れない。

京極杞陽(きょうごく・きよう)。明治41年~昭和56年。本名高光。兵庫県豊岡藩主14代当主(子爵)。大正12年9月1日、関東大震災にて父母、祖母、弟妹各二人を失い、姉とただ二人の生存となる。後日焼け落ちた玄関に正座して焼死している老僕兼吉の姿を杞陽は見ていると森田昇の「評伝・京極杞陽」は記している。櫂未知子の杞陽論のサブタイトル「喪失という青空」はこの凄まじい杞陽15歳時の悲劇に由来する。昭和3年東北大学文学部進学。1年で京大文学部に移る。翌年東大文学部に入学。昭和8年、大和郡山藩主長女昭子と結婚。昭和9年東大卒。昭和11年、ヨーロッパに遊学。11年、ベルリンで渡欧中の虚子歓迎句会に出て虚子の選を受ける。帰国後、偶然ホテルのエレベーターで帰国した虚子と同乗し、これらの縁で虚子と師弟関係となり、終生虚子に傾倒。昭和12年11月、「ホトトギス」初巻頭。昭和15年「ホトトギス」同人。昭和21年、「木兎」主宰。貴族院議員。翌年、新憲法により貴族院議員の資格を失う。昭和31年、波多野爽波の第一句集『鋪道の花』に解説を書く。句集は『くくたち』(装幀星野立子のシンプルで美しい句集)『但馬住』『花の日に』『露地の月』『さめぬなり』(遺稿集)。

美しく木の芽の如くつつましく 昭和11年 『くくたち上』
都踊はヨーイヤサほほゑまし
汗の人ギユーツと眼つぶりけり
天の川鹿の子絞りとなりにけり 「ホトトギス」昭和12年11月巻頭句
香水や時折キツとなる婦人 「ホトトギス」昭和12年11月巻頭句
ワンタンとありおでんとありセルロイド提灯
白魚と銀貨とどこか似てをらずや 昭和13年
浮いて来い浮いて来いとて沈ませて
鷹匠が二人一人は鷹を手に
春雨を枕に耳をあてて聞く 昭和17年 昭和11年 『くくたち下』
靴を穿く今が一番寒い時 昭和18年
春風や但馬守は二等兵 昭和19年
春川の源へ行きたかりけり 昭和20年
詩の如くちらりと人の炉辺に泣く 昭和21年 『但馬住』「ホトトギス」9月巻頭句
この子亦髮伸びてきて風邪らしも 昭和23年「ホトトギス」6月巻頭句
妻いつもわれに幼し吹雪く夜も
蠅とんでくるや箪笥の角よけて 昭和24年
ハンカチは美しからずいゝ女
余花の駅のりおくれたる漁婦らしき 昭和25年
はしりすぎとまりすぎたる蜥蜴かな 昭和26年
スエターの胸まだ小さし巨きくなれ
貧乏は幕末以来雪が降る 昭和28年
野菊にも雨ふりがちの但馬住
王の風邪癒えて王女の風邪心地
桃一つながれて来ずや岩の間を
西行忌なり昼の酒すこし 昭和29年
親切のマツチあかりが稲架てらす 「ホトトギス」4月巻頭句(年尾選)
春風の日本に源氏物語 「ホトトギス」昭和30年4月巻頭句
秋風の日本に平家物語 「ホトトギス」昭和30年4月巻頭句
業平はいかなる人ぞ杜若 「ホトトギス」10月号巻頭句
熊野(ゆや)の如朝顔の如金魚かな 「ホトトギス」昭和31年10月巻頭句
ががんぼのタツプダンスの足折れて 「ホトトギス」10月巻頭句 
どの蟻の智もまさらずにおとらずに
蟻の居て寝釈迦の如く蝉死して 「ホトトギス」昭和33年8月巻頭句
電線のからみし足や震災忌 「ホトトギス」12月巻頭句
燃えてゐし洋傘や震災忌 「ホトトギス」12月巻頭句
雪国に六の花ふりはじめたり
桐の花虚子なき月が上りたり 昭和34年 『花の日に』
ことと音又も深雪にことと音 昭和37年
黄を金といふ一例や金鳳花 「ホトトギス」6月巻頭句
うまさうなコツプの水にフリージア 昭和38年
飾りたる夏と冬との陣羽織 「ホトトギス」6月巻頭句
綿菓子をたべんと口を春風に 昭和40年
蛤のうす目をあけてをりにけり 昭和43年 『露地の月』
皆大江山に尻向け田を植うる
初湯中黛ジユンの歌謡曲 昭和44年
汀チヤンにどの冬山の名教へん
空蝉のすこしよぢれてをりにけり 昭和46年
過ぐといふこと美しや初時雨
梨むけとナイフ十挺ほど出され 昭和47年
歌歌留多式子内親王が好き 昭和48年
うしろ手を組んで桜を見る女
BONNE・NUIT(おやすみ)といふ名の薔薇の散終り
熱燗を二十分間つきあふと
智恵の輪にさしこんでをる冬日かな 昭和49年
欠伸忌とおもうてもみる虚子忌かな
蟻地獄鼻唄まじり来し蟻を
ベルベツト裾長く着て青き踏む 昭和50年 『さめぬなり』
ピツチングローリングして兜虫 
真言の秘密々々の滝の音
猫の姫猫のごんたと恋をして 昭和51年
城山は桜点々辛夷点々
どことなくジプシー風の薔薇なりし 昭和52年
割烹着はづせば冬のバラに似て
羽子板のこれぞめ組の辰五郎 昭和56年
朝寝してスペースシヤトル飛ぶがまま

妻の昭子も俳句を能く詠み、「ホトトギス」巻頭を年尾選で二回取っている。

シユーベルト恋ふ子は楽譜読みはじめ 「ホトトギス」昭和31年1月巻頭句
遊船に乗るかと問はれ牡丹雪 「ホトトギス」昭和35年3月巻頭句

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