ホトトギス雑詠選抄〔17〕
夏の部(五月)五月・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
日本であれば五月の歌の花は、さしずめ卯の花だろう。「卯の花のにおう垣根に、時鳥早ももきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ」(作曲小山作之助・作詞佐々木信綱「夏は来ぬ」。明治29年5月『新編教育唱歌集(五)』所収)は余りにも有名だから。佐々木信綱は歌人だから、57577の三十一文字の短歌のリズムに、タイトルの5の音数律を重ねたわけで、今でも歌えるから、子どもの頃に言葉の調べで覚えたものは死ぬまで忘れないようだ。
だが、時鳥と花の取り合せは「卯の花」に限らず、「梅と鶯」のように、『万葉集』では、「橘と時鳥」を合わせるのが慣しだった。
橘の花散る里の霍公鳥片戀しつゝ鳴く日しそ多き 大伴旅人 巻8-1473
「あやめ草」もそうで、『古今和歌集』の、
郭公なくや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな よみ人知らず
の一句あるがゆえに、「よみ人知らず」の秀句として後世に数多く本歌取りされた。
佐佐木信綱が「橘」でも「あやめ草」でもなく「卯の花」を選んだのは、空木が咲くと日本人は田植を始めるという農暦的な日本の稲作の大切さを「教育唱歌集」として盛り込んだためという気がする。「夏は来ぬ」の2番は、その証拠に、「さみだれのそそぐ山田に、早乙女が裳裾ぬらして、玉苗ううる 夏は来ぬ」と続くから。
リラの花の歌も、ニワトコやスミレではなく、リラでなければならないフランス的なこだわりがあるようだ。というのは昭和3年以前、エルネスト・ショーソン (1855-1899)歌曲集で、ショーソンの代名詞にもなっているほどの美しい歌曲が「リラの花咲く頃」Le Temps des Lilas(1886) という、フランス人にとってはそのまま「美しい季節」を意味するタイトルとしてあるからだ。これはモーリス・プショール(1863-1909)が詩をつけており、
Le temps des lilas et le temps des roses
Ne reviendra plus à ce printemps-ci;
Le temps des lilas et le temps des roses
Est passé; le temps des œillets aussi.
Le temps des lilas et le temps des roses
Avec notre amour est mort à jamais.
リラの花咲く頃も 薔薇の花咲く頃も
この春にはもうめぐってこないだろう
リラと薔薇の日々は
過ぎ去った 撫子もまた
花咲くリラと薔薇の日々は
我が恋とともに永遠に過ぎ去った
というように、アポリネールの「ミラボー橋」(Le pont Mirabeau堀口大學訳)、
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
のシャンソンと同じで、「白いリラがまた咲く頃」(Quand refleuriront les lilas blancs)の明るさは微塵も無く、ハンカチを握りてよよといふ形、といった感じである。
同じ「リラの花咲く頃」Le Temps des Lilasのタイトルでバルバラ(1930-1997)が歌うシャンソン(1962)もある。バルバラの歌は、わたくしも知っている新しい歌なので、当然のことながら昭和13年にはまだ歌われていない。フランスへ留学していた小川国夫は『リラの頃、カサブランカへ』という中国人とフランス女性の三角関係というオートバイ小説を書いているから(小川国夫自身は捨石と言っているが、実にスリリングで切なくも魅力的な作品である)、こちらはバルバラかと思ったが、小川国夫が渡仏したのは1953-1956の3年間なので、まだバルバラの歌は生まれていない。「リラの頃」というタイトルはショーソンの美と哀愁のLe Temps des Lilasにこそふさわしいようにも思う。
また、リラの花というと、現代詩を齧った者なら誰でも日本の戦後詩の開闢を告げる鮎川信夫、北村太郎、中桐雅夫、加島祥造、三好豊一郎、黒田三郎、高野喜久雄、田村隆一、野田理一、吉本隆明らを輩出した同人詩誌「荒地」の名前の由来となった、イギリスのE・H・エリオットのApril is the cruelest month(四月は残酷な月だ)で始まる『The Wasted Land』(荒地)の「The burial of the Dead」(死者の埋葬)の冒頭の詩を連想するだろう。
April is the cruelest month, breeding 四月は残酷な月だ、
Lilacs out of the dead land, mixing リラの花を死の土地から咲かせ、
Memory and desire, stirring 追憶と欲望を掻き混ぜ、
Dull roots with spring rain. 鈍感な根っこを春の雨で揺り起こす。
つまり、リラの花と言えば、吉田健一が「英国の近代はワイルドから始まる」(『英国の近代文学』)と果敢に断定したように、「現代詩はエリオットの四月から始まる」(by猫髭)という連想をしがちで、リラの花=酷薄なイメージになる。
ところが友次郎の句は、ウィーン、パリとパリっ子の愛誦歌が生まれる過程をすべて見て来た若き日の体験が、「巴里子」と「五月」と「歌」の取り合わせの「の」によるリズミカルな並列で等価に響き合い、「は」の抱え字で「リラの花」に収斂して一気に薫風が吹くような律動があり、音楽と詩とのコラボレーションで後世を楽しませる海外詠ならではの一句となっている。ずっとリラの花というとエリオットのイメージだったが、友次郎の句に出会って開放されたような気分である。
虚子は『渡仏日記』で海外詠を沢山詠んでいるが、エスプリの国に「花鳥諷詠」の季題趣味をそのまま移植することは困難である由を後に語っている。友次郎の句を読むと、虚子のような俳句への使命感のようなものから自由だった分、掲出句のような、フランス人でも素直にわかる句を詠むことが出来たように思う。
池内友次郎(いけのうち・ともじろう)。明治39年~平成3年。虚子の次男。父方の本家を継ぎ池内姓を名乗る。昭和2年、パリ・コンセルバトワール音楽学校に日本人として初めて入学。昭和12年帰国。東京学芸大学作曲家教授。日本音楽会の草分けでもある。『よみものホトトギス百年史』によれば、虚子は友次郎を「お前は俳句の専門家とはいへない。而も俳句界に一家を為すところの素質を供へてをる」と評した。句集『結婚まで』(三省堂、昭和15年)『調布まで』(臼井書房、昭和22年)『池内友次郎全句集』(深夜叢書社、昭和53年)『米寿光来』(永田書房、昭和62年)。
雪の夜の物語りめく寺院かな 昭和10年4月「ホトトギス」巻頭句 巴里
パリの月ベルリンの月春の旅 昭和11年
囀に古城の塔の時計かな 昭和11年7月「ホトトギス」巻頭句 巴里
春の絵の枠とも野行く汽車の窓 同上
祖父の太刀抜きとくと見る蝶の縁 昭和16年6月「ホトトギス」巻頭句 東京
萌ゆる芽のよびよせ誘ふ色ならめ 同上
除草夫の手が伸び草がつかまれし 昭和19年11月「ホトトギス」巻頭句 調布
秋風や嘘言はぬ人去つて行く 昭和24年1月「ホトトギス」巻頭句 吉祥寺(年尾選)
国道は野山に浮かぶ秋の風 同上
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