夏の部(五月)苗・上
猫髭 (文・写真)
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる 高野素十 昭和4年
写真は、常陸の國那珂湊の実家前の「角セ」から頂いた朝顔の苗である。「角セ」というのは屋号で、姓は磯前だが、わたくしが生まれた隣町の大洗はじめ、この辺は「磯で名所の大洗樣よ」と「磯節」に歌われるほど、地名が磯崎とか磯浜とか言うように、磯前とか磯崎とか磯がつく家がやたらと多く(出雲大社に連なる大洗磯前神社もそう)、どこの磯前さんかわからないので、屋号で呼び合う。その「角セ」のおばさんがくれた朝顔の苗は紫紺の花が咲くという。
朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷 『風切』(昭和18年)
を思い起こすが、掲出句は、写真のように、右の双葉を見れば朝露をとどめているのがわかるから、「どこか濡れゐたる」と、見ればわかることを持って回った言い方をしている、というわけではない。複数の朝顔苗が植えられているのである。「特に二葉の頃揚巻貝を開いたやうな風変りな葉をしてゐるのが異色である。葉は光沢がある。他の苗類よりも少し遅れる」と虚子が歳時記で解説した双葉の形は、誰もが小学校で観察記録を書かせられたからすぐわかる親しい形出、実際に濡れていなくても「どこか濡れゐたる」と覗き込むような低い姿勢を読者に取らせる。上田信治氏が「無意識の共感能力」と呼んだのは、まさしくこの俳句というこの世でもっとも目線の低い文芸の姿勢へと読者を誘う「どこか濡れゐたる」という俳言だろう。これからどんな色の花を咲かせるのだろうという恵みを期待させる瑞々しい句でもある。
十年ほど前になるが、雨季の初めより、門の前の石垣の下のわずかな土くれにしがみつくように朝顔の双葉が生え、大谷石を伝いフェンスにからみ、などかくは美しき水無月の終わりより葉月を盛りに、大輪の紅紫の花が咲き乱れた。ちょうどボストンの友人が遊びに来ていたので、これをしも何と言うとたずねればMorning glory、すなわち彼の国のひとびとは「朝の栄光」と呼ぶ。そう言えば、宮沢賢治の詩「オホーツク挽歌」(『春と修羅』所収)には、
しづくのなかに朝顔が咲いてゐるという一節があったっけ。もっとも、それは朝顔ではなく、
モーニンググローリのそのグローリ
朝顔よりはむしろ牡丹(ピオネア)のやうにみえるだったが、確かに遠目に見ると、はまなすは紅の朝顔のように見えない事も無い。
おほきなはまばらの花だ
まつ赤な朝のはまなすの花です
そうか、アメリカにも目覚めの恵み(glory)として朝顔はあるかと気づき、種類はと問えば、いろいろあるらしく、いま覚えているのはMilky way(天の川)。これなどゆかしい。命短しと日本で言えば花のようにと来るが、アメリカでは何と言うか聞いたところ、Life is short. Like a dog.と言ったのが可笑しかった。プラグマティズムのお国柄ではある。
ところで、この大ぶりの紅の朝顔はいずこから流れ来たるやと怪しめば、我が家の五軒ほど上に、朝顔協会(というのがあるらしい)の会長さんの家があって、そこから流転の旅をしてきたらしく、ある朝、その朝顔老人が我が家の前に立ち、カミサンにそのやんごとなき貴種流離のいわれを述べたという。それが「左京一笑」なり。
丹精に咲かせてくれたと(勝手に根付いて勝手に咲いたのだが)、その朝顔老人がほかにもいろいろと種をくれたのが、紅色の「左京一笑」。
茶色は二種類あって「清山」と「団十郎」。
水色は「初瀬空絞り」で、まさしく空の色をしぼったごとく。
桃色は「萬代の桃源」といって、これも美しい桃源郷から流離したかという彩りを庭に投げ打つ。
我が家の裏手は、逗子と鎌倉をつなぐ巡礼古道と呼ばれ、馬手にくだれば、竹の寺報国寺(川端康成の小説『山の音』の舞台なり)、弓手に谷戸を歩けば曼荼羅堂から切り通しを抜けて小坪の海へとつらなり、衣張山(きぬばり)、浅間山(せんげん)という小高い丘のような山々が散歩道で、富士山が一番よく見える見晴台の傾斜には薄が生い茂り、この薄の枯枝を刈って、それをタコ糸で括り、アニメ『もののけ姫』の物見の砦のように組んだものが、御近所名物の我が家の朝顔の砦だった。薄の枯枝を推奨したのは朝顔老人だったが、薄と馬鹿にするなかれ、2メーター近くあり、結構太く、朝顔につるべとられてもらい水にはうってつけの素材だった。
種をどこにしまったか失念して朝顔砦は滅びてしまったが、「左京一笑」の種など一粒何千円と聞いて、いや、惜しいことをしたと思った。俳句に親しむと赤貧に甘んじる定めらしい。
(明日につづく)
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