山田露結
■10句作品より。
ぶらんこにきて上履きと気づきけり 今村 豊
噴水に犬の肉球あらふ人
プールより見られて渡り廊下ゆく
日常風景の中からやや穿った視点で一齣を切り取ることによって生まれる仄かな笑い。バランスの取れたほどよい力の入れ具合が心地良かった。
プロフィールに「2005年頃より句作開始。2007年「澤」入会。」とあるから若い人だろうか。前回、第208号の福田若之氏の作品も好感を持って読んだが、このようなさまざまなタイプの若手の登場には、やはり刺激を受ける。
■週刊俳句時評第29回「被災と俳句」より。
今回の東日本大震災で茨城県土浦市において被災した関悦史氏の記事である。
私はツイッターを通して関氏の被災した状況を断片的にではあるが知っていた。記事によると氏のところへは震災直後から俳句つながりの人たちから数多くの支援物資が届けられたようである。しかも、一度しか会ったことのない人、一度も会ったことのない人からも物資を送りたいという申し入れがあったという。
私は関氏とは一度だけだが面識がある。ツイッターを通じてやりとりをしたこともある。しかし、私は氏に支援物資を送らなかった。この記事を読んで、私は自分が薄情な人間なのかも知れないと少し自分を責めたくなってしまった。
さて、記事の中で氏は「季語歳ブログ」(http://kigosai.sub.jp/002/)について触れている。
私自身もこのサイトで震災俳句を募集しているのを目にして唖然とした覚えがある。震災をネタに作品を作ってはいけないとは思わない。思わないが、いくらなんでもタイミングが早すぎはしないか。地震があったのが3月11日、当ブログで震災俳句・短歌を募集しはじめたのが13日。待ってましたと言わんばかりのスピードである。しかもここに掲載された作品は早々に『大震災をよむ』として纏められ、刊行されている。http://kigosai.sub.jp/
また、これに先立って刊行された『震災歌集』は、その印税を義援金として寄付するのだという。http://www.koshisha.com/?p=1708
「さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり」(デュシャン)。命を失いはしなかったまでも、壊滅的な打撃を被ることになった人たちはみなこの「他人」の位置へと暴力的に自分が追い落とされたことを感じたことと思う。義援金を送ることは大切なことである。どんな形であれ、現金は救援物資とともに現在早急に必要な物であろう。しかし、他に方法はなかったのだろうか。この、多くの人の善意を利用した主催者側のイメージ戦略とも取られかねないやり方以外に本当に方法がなかったのだろうか、という思いがどうしても残ってしまう。
「励ます」というアクションは、無事に済んだものからこの「他人」へかけるものであり、いかに善意に満ちていようと、それとは無関係に「励ます」という行為そのものによって、無事な者と「他人」となってしまった被災者との絶対の懸隔をまざまざと見せつけるのだ。
この励ましを「挨拶」の一種と捉えるならば、時機を失していると思われる。葬儀に参列したら遺族を励ます前にお悔やみを述べ、悼むのが先決ではないか。当事者である関氏だからこその切実な思いであろう。
関氏はさらに『俳句』五月号に掲載された高柳克弘氏と神野紗希氏の作品とコメントを引用し高柳氏の「詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たないが、そのことを恥じる必要はないだろう。役に立たなければ存在意義が無いという考え方が、原発を生んだのだから。今後も何の役にも立たない俳句を作っていきたい。」というコメントに触れて次のように述べている。
高柳克弘のコメントを私流に敷衍すると、これは合理性・有用性を全否定して脱却をはかるといったことではないし、無用であること自体に居直る裏返しのロマンティシズムやイロニーでもない。合理性と非合理性、有用性と無用性という、異なる水準においてどちらもそれぞれ機能していなければならないバイロジカルのうち、前者すなわち合理性や有用性の圧倒的な肥大化と暴走に対し、後者、非合理性や無用性を育みかえす道を探ること、その潜在する経路の一つを詩歌に求めたものとして捉えるべきだろう。高柳、神野両氏のコメントには私自身、深く共感を覚えた。俳人が表現者として今回の震災の影響を受けないでいることは不可能だろう。今後、それぞれの俳人がそれぞれの立場において震災と向き合って行かなければならないと思う。そして、いかなる場合も「詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たない」ということを常にそれぞれの胸に留めておく必要があるのではないかと思うのである。
いち早く(善意の)震災俳句を募集し、それを纏めたものを刊行し、印税を義援金として寄付するというのは、ともすると肥大化した合理性や有用性に寄り添う行為、つまり「役に立たなければ存在意義が無いという考え方」を詩歌表現の場に持ち込むことにならないだろうか。
そんなことを今回、関氏の記事を読んであらためて考えさせられたのである。
最後に関氏の記事にあるデュシャンの言葉から以前読んだ本の中の一文を思い出したのでここに引用し、今回の問題、さらには関氏の言う「人に人を救うことは出来ないという厳然たる事態を前にして、俳句がとり得る一つの倫理の形」について考えてみたいと思う。
寺山 ここに編集部のあげた三首の歌がありますけど、そのなかで最初に奇異に感じたのは前田夕暮の歌です。
生涯を生き足りし人の自然死に
似たる死顔を人々はみむ
とありますね。
吉本 つまり自分の死ぬのを愛した歌ですね。死顔を予想してつくっておいた歌ですね。
寺山 ぼくらが死について考えるとき、マルセル・デュシャンの「死ぬのはいつも他人ばかりだった」という言葉がいつも思い出される。確かに死ぬのはいつも他人ばかりなんですね。自分が死ぬということを自分は見ることも語ることもできない。それを経験化することはできない。
にもかかわらず「死ぬのはいつも他人ばかり」というひとつの真理を引き受けながらこの歌を読むと、ナルシスティックなものとしてとらえたらいいのか、酷薄的なもの、リゴリスティックなものとしてとらえたらいいのか非常にとまどうわけです。
(略)
寺山 ここには死を認識しようとする姿勢がまったくないんですね。まるで「面打ち」が、面をひとつ打ち終わって、その出来具合を人々がどう見るだろうか、気にしている。
吉本 そう思いますね。
寺山 そういう意味で死がいとも軽やかに定型化してゆく過程の中で、自己慰藉の心のうごきが手にとるようにわかる。少なくともこれをつくったときの夕暮は元気だったのではないか、そして死を忘れていたひとときにできた歌なのではないか。
(「死生観と短歌」寺山修司/吉本隆明「寺山修司対談選・思想への望郷」講談社)
2 件のコメント:
とりあげていただいてありがとうございます。
いや、薄情ななどと思わないで下さい。
私にしてからが自分が無事な立場だったらそこまで気が回ったとは思えません。だから余計驚いたわけですが、特別人付き合いがいいほうというわけでもないので、今回の反応は本当に望外なことでした。
コメントありがとうございます。
それだけ多くの人が関さんを思っているということだと思います。
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