2014年4月16日水曜日
●水曜日の一句〔伊丹三樹彦〕関悦史
関悦史
居沈むは水牛ばかり 大緑蔭 伊丹三樹彦
『写俳集16 ガンガの沐浴(インド編)』という、インドの写真がいっぱい載った写真&俳句集のなかの一句だが、句のほうは全部、1984年に刊行された『隣人 ASIAN』(角川書店)からの再録とのこと。
伊丹三樹彦の句は、こうした写真と一体の作りの本に限らず、視覚情報をわりとそのままに分かち書き俳句にしたものが多く、それ以上の要素(観念性、象徴性その他)は特に求めていない。言葉が明快である。ただし、いわゆる客観写生的にまわりから来る自然を受容する一方ではなく、題材に何を選ぶかの段階で志向性がはっきり出る。姿勢としては攻めの俳句なのだ。
この「写俳集」に収められた他の句
ガンガの水汲んだばかりの 壺に初日
腰高の褌一貫 初沐浴
魂魄去った五体に レイの十重二十重
金輪際坐る行者に ガンガ明り
椰子の汁 呑めよと 朝の鉈を発止
などを見ても、観光先でシャッターを押すのと同じように、興味をひくものがあらわれると反射的に句にしている感じが伝わってくる。美しいという感動が先にたったモチーフを俳句にしようとすると言葉がどんどん重くなっていきがちなのだが、そうなる前に打ち返しており、インドのイメージとしては、見る前からそういうものだろうと思う景物ばかりで、捉え方もひねりがないのに、その平板さのなかに奇妙な鮮度がある。
言葉が明快なのは喩的な要素(つまり二重性)がないからだが、俳句である以上、音韻的なものも含めて、言葉の組織の仕方に気を使わないわけはない。
掲句も「居沈む」という、おそらく造語であろう複合動詞に、対象たる水牛にストレートに達した心地よい重さがあり、「大緑蔭」の「大」もそれと響きあって空疎になることなく、広く涼しげな空間を作っている。
内面の深みへ引き入れようとする象徴表現の類は特にないのに、奇妙な生気、あるいは霊気のようなものがわずかながら感じられるのは、水牛「ばかり」という限定が、人をはじめとするその他の生き物たちへの無意識の期待を、否定によって浮かび上がらせているからだろう。
部分で全体を表す(あるいはその逆)のレトリックに提喩(シネクドキ)というのがあるが、ここでの水牛は、いわば、部分でありながら、その他あらゆる生き物を後ろにひかえた茫漠たる何ものかとして、作者を見返している。
『写俳集16 ガンガの沐浴(インド編)』(2014.4 青群俳句会)所収。
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