〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド3
福田若之・編
千代子が縁伝ひに急ぎ足で遣つて来て、僕に一所に電話を掛けて呉れと頼んだ。僕には一所にかけるといふ意味が呑み込めなかつたが、すぐ立つて彼女と共に電話口へ行つた。
「もう呼び出してあるのよ。妾声が嗄れて、咽喉が痛くつて話ができないから貴方代理をして頂戴。聞く方は妾が聞くから」
僕は相手の名前も分らない、又向ふの話の通じない電話を掛けるべく、前屈みになつて用意をした。千代子は既に受話器を耳に宛てゝゐた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、独り彼女が占有する丈なので、僕はたゞ彼女の小声でいふ挨拶を大きくして訳も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかつた。夫でも始の内は滑稽も構はず暇が掛るのも厭はず平気で遣つてゐたが、次第に僕の好奇心を挑発する様な返事や質問が千代子の口から出て来るので、僕は曲んだ儘、おい一寸それを御貸と声を掛けて左手を真直に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑ひながら否否をして見せた。僕は更に姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪はうとした。彼女は決して夫を離さなかった。取らうとする取らせまいとする争が二人の間に起つた時、彼女は手早く電話を切った。さうして大きな声を揚げて笑い出した。……
(夏目漱石『彼岸過迄』、『定本漱石全集』、第7巻、岩波書店、2017年、232-233頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)
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取り違いも他の錯誤と同様、しばしば、自分に対して拒まざるをえず不首尾に終わりかねない欲望を充足するために用いられます。意図は、その際、幸運な偶然という仮面を被っています。たとえば、私の友人のひとりに実際にあったことですが、およそ意に反して汽車で近郊に人を訪ねて行かねばならないとき、乗り換えの駅で間違ってまた市内に戻る電車に乗ってしまう。あるいは旅行に出かけた際に、実は途中の駅で降りてそこにもっと長く滞在したいものだと思っていながら、何らかの用件のせいでそれが叶わないというとき、一定の接続の便を見過ごしたりうっかり乗り遅れたりして望みどおり中途滞在を余儀なくされる、といった場合などがそうです。あるいは、私の患者のひとりに起こったことですが、私は彼に、自分の恋人に電話することを禁じていました。ところがこの患者は私に電話しようと思って、「考えごとをしていて」、「間違って」交換手に誤った電話番号を告げ、その結果、思いがけず恋人と電話が繋がってしまったのです。
(ジークムント・フロイト『精神分析入門講義』、『フロイト全集』、第15巻、新宮一成ほか訳、岩波書店、2012年、84頁)
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役所の公式媒体である書字でのコード化だと、意識といっしょにフィルターもしくは検閲をつねに介在させてしまわざるをえないから、無意識の振動は電話のような装置によってしか、これを伝えることができない。
(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、上巻、石光泰夫、石光輝子訳、筑摩書房、2006年、222頁。原文では「媒体」に「メディア」とルビ)
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電話は人と人とをパーソナルに結びつけるメディアである。だから、通常の電話はつねに、特定の誰かから他の誰かへとかけられる。にもかかわらず、電話の通じた瞬間には、それが誰からかけられたのかも、誰が受話器をとったのかもわからない。電話が通じた瞬間、受話器の向こうの相手はつねに見知らぬ「他人」として現れる。「もしもし……」に始まる一連のやりとりは、さしあたって「他人」として現れた相手が誰であるのかを確定するための手続きなのである。
(吉見俊哉ほか『メディアとしての電話』、弘文堂、1992年、38頁)
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ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low difinition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないしは補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。
(マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』、栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年、23頁)
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あれは去年のある日の午前三時ごろ、あの長距離電話、どこからかけてきたものかわかりようもないが (彼の日記でもあれば別だけれど)、声は、はじめはひどいスラヴ訛りで、こちらはトランシルヴァニア領事館の二等書記官だが逃げた蝙蝠を探しているのだと言い、それがコミック調の黒人訛りに変化し、それから敵意をむき出しのメキシコ系愚連隊言葉になってオマンコだのオカマだのとわめいた。それからゲシュタポの将校に変わって、かんだかい声で、貴下はドイツに親族ありやなどと尋問し、最後はラジオのミステリー番組『ザ・シャドウ』の金持ち弁護士ラモント・クランストンの声に落ち着いたが、それはかつてマサトランへ行く途中、ずっと彼が使った声色だった。
(トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』、志村正雄訳、筑摩書房、2010年、10-11頁)
2017/12/24
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