年の尻を拭いで世話するか、蹴っちまうか: 諸君どうする?
robin d. gill(敬愚)
くそ世話も世の習いとて行年の尻ぬぐいにとおくる白紙
At this time when the whole world kisses ass, I send
toilet paper to serve what’s left of the Year, its end!
狂歌には四季の巻もよくあるが、季語はない。とは言え季語を重ねてはよくないという俳諧の馬鹿げたルールもないから、重ねても滑稽と感じず、ただその季節をよく描かれている事になる。古狂歌の数々ある「年の尻」を分け入て択んだ上記歌鼠の1815年の上方狂歌には、かの師走の多忙に行年の暮に年玉の三つもある。とは言え、糞世話が抽象上に行年に贈る=送るも、八年前の1807に詠まれた上方の素人の「肥やし取る得意へ米は渡しつゝ我が屋の餅をつく年の尻」を考慮すれば、かの下肥業の方への年玉に成りかねない。そして、敬愚よりも風刺を求む読者ならば、又遡って1784以前の上方狂歌、安藤犬丸の
河童のさらにひまなき仕舞事に人もすう/\云ふ年の尻
は、いかがですか。「すう」は、何か。尻子玉の新玉はまだが、掛取りに「すうまない」「すうみません」と言う事ならば、尻作だ。七年前の1777以前の省巴の上方狂歌に年の「尻毛」を詠む首は吸うよりきもいかどうかよう知らないが、四十三年の1734まで遡った宵眠の俳諧風の上方狂歌
年の尻おしつめれども心強う見返りもせずゆき女かな
とは、まるでイタリア人得意それとも悪癖のセクハラの仕草を思わせながら、冷たい雪の行年を描く。押し爪が詰めに掛けて年内立春と思えば秀歌なる(ああ東京にいる友のキットさんは雪が降ったと言うから、今年はこれだったか。残念ながら英訳まだない)。しかし、最初に紹介した歌鼠の糞の世話の尻ぬぐいと同様に名歌にしてもいいかと考えている首は、元禄の月洞軒という悪太郎のいかされた口語詠みである。
貧乏神まりけるように蹴ていなせ ありはどっこいよき年の暮れ
Just give Poverty a big kick in the arse, as if he were a ball –
send that god off w/ a bang: the year may end well after all!
素朴の志願ながら「あり」は鞠が空中でなんとなく節分が除夜になった年の雰囲気か。ただし、貧乏神⇒金鞠(かなまり)と紙子を合わせた新造語「紙鞠」か、その確認ができなかったら名歌にしがたい。同じ口語ながら、もう少し謙遜の自嘲調の句例もある。やはり、老一茶だ。
So just where
will the passing year
leave this old geezer?
行く年はどこで爺を置き去りに
畜生! まだマイアミだあああ。焼き秋刀魚定食も食わず、海鼠腸も吸わず、松酒を枡から漏らずように呑まんとすることもなく一年が終わる。俳友たちよ!古狂歌を他人あつかいせずに、遠慮なくコメント下さい! 俳界に棲む者は「名歌にしたい」狂歌の二首のどれが択ぶべき。百首に双方とも? いや、双方ともつまらないか? FBにも色々と投稿するが「ライク」ばかりでは判らない。ご感想を! ご意見を!
2018年1月1日月曜日
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1 件のコメント:
英語には「年の尻」という慣用句はないから、貧乏神と古年(きっと貧困に困って忘れたい年)を共に考えかねるかと思えば「年の貧乏神まりけるように蹴ていなせ ありはどっこいよき年の暮れ」の蛇足訳も創った。
I’ll kick them out, as I would a ball or buttocks, pretending
ye Olde Year be Poverty, my god, that’s one good ending!
そして(今になって少々遅いが!)勝手に犬年を入れてみました!
Booting out that Old Year as if he were Poverty my god, I pray
my good fortune may be fetched by this new Year of the Dog!
原文から迷いながら、即興という古狂歌の心(信歌などは狂歌を「興歌」とも綴った)を掴む。俳句の季語の良さを悟る人は、それも即興を拒むことなく、即興を促す事も判る。古狂歌を読むと、やはり俳句における造化する力は強くなると思ってはならない故は、これか?(robin d gill)
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