2018年6月26日火曜日

〔ためしがき〕読むこと、途上 福田若之

〔ためしがき〕
読むこと、途上

福田若之

T・S・エリオットの「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」に次の一節がある。
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent  
To lead you to an overwhelming question....
Oh, do not ask, “What is it?”
Let us go and make our visit.
試みに訳してみよう。
街は続く 退屈な議論のように
隠された意図についての
君をとてもかなわない問いへと誘おうとする議論のように……。
おい、訊くなよ、「それは何」なんて。
僕たちは行こう、そして訪ねよう。
こんな具合だろうか。「それは何?」すなわち「とは何か」の問いを発することが強く戒められている。隠された意図を探る退屈な議論に引きずられてはいけない。そのさきに待っているのは、とてもかなわない問いでしかない。

「とは何か」、これは旅人を殺す問いの形式だ。旅人を殺すためには、「とは何か」という問いに彼らの足を引き留めさせるだけでよい。行かぬ者はもはや旅人ではないのだから。かくして「とは何か」の問いは足を狙う。ピーキオン山のスフィンクスはこのことをよく心得ていた。彼女の問いは、じつに足を狙うまなざしそのものだ。四本足、二本足、三本足――彼女の問いは、人間の足をじっと見ている。そして、「とは何か」。聡明なオイディプスでさえ、この問いに答えてしまったがゆえに旅人であることを失う。彼はそのままテーバイの王になってしまうのだ。オイディプスの名は「腫れた足」を意味する。

読みを彷徨させるために、もはや「とは何か」と問わないこと。そうではなく、移ろいに身を任せること――「僕たちは行こう、そして訪ねよう」。エリオットの詩は、そのことへと読み手を誘う。

ロラン・バルトは「文学はどこへ/あるいはどこかへ行くのか?」と題されたモーリス・ナドーとの対話のなかでこんなことを言っている――「読者を潜勢的あるいは潜在的な作家にすることに成功する日が来れば、あらゆる読解可能性についての問題は消えてなくなるだろう。見たところ読みえないテクストを読むときにも、そのエクリチュールの動きのなかでなら、そのテクストのことがとてもよくわかるものだ」。読み手としてエクリチュールの動きに身を置くこと。エリオットの一節は、おそらくこのことに通じている。あるいは、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』のことを思う。

2017/6/22

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