〔ためしがき〕
俳句は誰にとって長く、あるいは短いのか
福田若之
いくつかのことがらを漠然と思い起こしながら、ふと、腑に落ちたことがある。
俳句は、言葉から発想する傾向があるひとにとっては、しばしば長いと感じられるはずだ。なぜなら、すでにある言葉がひとつだけでは、俳句にならないから。俳句は、たとえば季題から発想される場合には、ふつうはかならずその季題よりも長いものとして考えられる。このとき、俳句を書くことは、もとの言葉に対する足し算として経験される。
これに対して、イメージから発想する傾向があるひとにとっては、俳句はしばしばあまりにも短いと感じられるだろう。ひとつのイメージは、根本的に、言葉では言い尽くしようがない。だから、俳句に書き込むことのできるイメージは、作者の見た、ないしは思い描いたイメージよりは必ず少ないものになる。このとき、俳句を書くことは、もとのイメージからの引き算として経験される。
だから、この意味で、たとえば高柳重信にとって俳句は長く、金子兜太にとって俳句は短かったということはないだろうか。もちろん、結論を出すには慎重になる必要があるけれども、考えてみれば、これはなかなかおもしろい問いかもしれない。実際、この観点からすれば、たとえば重信の句は兜太のそれよりもはるかに今井杏太郎のそれに近いと言えるのではないかという気がする。理由はどうあれ、僕にとって、それはたしかに実感としてそのとおりだ。それも、このことは、『山川蟬夫句集』の重信よりも、むしろ『山海集』や『日本海軍』の重信についてよりよく当てはまることのように思われる。
ところで、読み手にとっては? ——それはもちろん、また別の話だ。
ところで、読み手にとっては? ——それはもちろん、また別の話だ。
2018/10/31
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