小津夜景
日々の泡
結婚のときに母がもたせてくれた鍋の底を焦がしてしまった。
スチールの束子でこすってみる。黒ずみが少しとれた。ついでに内側もこする。しゃらしゃらしゃら。あらためて眺めると、かすかな傷がいっぱいある。傷というのはなんて綺麗なのだろう。
水が沸騰するとき、さいしょの気泡は鍋の傷から生まれる。逆から言うと、鍋に傷がないとき、水は100℃になってもぜんぜん沸騰しない。
「それほんと? じゃあね、もしも傷のない、完璧なお鍋がこの世に存在したとして、一番はじめの、たったひとつぶの気泡は、いったいいつ、どうやって生まれたらいいの?」
と、いつだったか、会話の流れで、そう夫に質問したことがあった。そのころ夫は、たまたま辿りついたピレネー山脈のふもとの町で、無重力下における沸騰現象の研究をしていたのである。
「その場合、さいしょの泡は、水中の水の分子の密度が低いところが偶然生じたとき、その『穴』から生まれるんだよ」
「密度が低いって、つまりどういうところ?」
「分子と分子とが離れているところ」
いつのまにか、鍋がみちがえるほどぴかぴかになっている。水をはり、コンロにかけて、火を入れる。鍋の底にあえかなゆらぎが見え、傷の中に隠れている空気が気泡になりたがっているのがわかった。あ、くる。そう思ったとたん、気泡が鍋の底からぷっとあらわれ、ゆらりと剝がれて、消えた。
私を眺めやるとき、私は私が、夢のやうに遠い、茫漠とした風景であるのに気付いてゐた(…)私は、その上夢を、その風景を、あかずいとほしんだ。風景である私は、風景である彼女を、私の心にならべることをむしろ好むのかも知れなかつた。そして風景である私は、空気のやうに街を流れた。(坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌 夢の総量は空気であつた」岩波文庫)このまま水を沸かしつづけていると、鍋はいつか、傷のない完璧な器に変わるだろう。それほんと? そんなすごいお鍋がこの世に存在するの? うん、傷のない器のつくりかたはこうだよ。1、水を長時間沸かす。2、とてもしずかに冷ます。これで傷の中に隠れていたすべての空気が抜け、そこに水がしみこんで、できあがりだ。
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