相子智恵
仔牛待つ二百十日の外陰部 鈴木牛後
句集『にれかめる』(KADOKAWA 2019.8)所載
昨日、9月1日は「二百十日」だった。立春から数えて210日目が「二百十日」、220日目が「二百二十日」で、「台風が起こりやすく、警戒すべき厄日」として、いずれも江戸時代初期『伊勢暦』の雑節に加えられて以来、農業や漁業に、生活の知恵として活用されてきた。「二百十日」を警戒して暮らすことは、昔の人にとっては死活問題であったのだ。
ただ天気予報の進んだ現代では、この季語にそのような実用性を感じている人は、まずいないだろう(作者も実用性は感じてはいまい)。民俗学的な言葉の面白さやイメージが先行する季語として、〈釘箱の釘みな錆びて厄日なる 福永耕二〉など、遠い二物を取り合わせることも多くなっている。現代の生活実感からは遠い季語だ。
掲句、牝牛の外陰部をじっと見ている。臨月を迎え、もうすぐ仔牛が生まれるのだ。嵐の前の静けさの緊張感が「二百十日」と響き合う。近いうちに起こるであろう母牛のすさまじい破水、母牛の苦しみ、仔牛の誕生はまさに台風。句集冒頭の佳句〈羊水ごと仔牛どるんと生れて春〉を読んでからこの句を読むと、これから始まる生臭い命の一大事に、昔の人が「二百十日」を無事に過ぎてほしいと心から願ったのと似た感覚を覚える。〈外陰部〉というおよそ詩語ではない言葉のリアルさもあり、実用性のない「二百十日」という季語に、命の現場から生々しさが吹きこまれたような気がするのだ。
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