2021年11月5日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




さてそこのざっくばらんな化石たち

筒井祥文(つつい・しょうぶん)1952~2018

《ざっくばらん》は、オノマトペ「ざくり」「ばらり」が語源だそうで(諸説あり)、胸をざくりと割って、心の中をばらりと露出する。化石は、石をざくりと割ったら、ばらりとかたちが現れたってなものだから、《ざっくばらんな化石》はとてもよく筋が通る。

この句の不思議さは、この箇所よりもむしろ、《さてそこの》という呼び掛けが醸す擬人法に類する効果、すなわち化石が耳をもっているかのような思いを読者に現ぜしめ、なおかつ《たち》によってその感興が増幅される点。この句の行為、居並ぶ化石を前にしてのこの行為は、かなり可笑しい。このセリフに続いて、いったいなにを言おうというのだろう。という連想の契機を強く与えてくれつつも、連想そのものの内容は見当がつかず(そろそろ昼ごはんにする? だとか、ちょっとだけ話聞いてね、だとか?)、例によって〈世界〉のかすかな、けれども鮮烈な亀裂たる一句、でありながら、当該の〈世界〉は茫としてつかめない。

あ、そうそう、《ざっくばらん》。〔私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。〕。これは谷崎潤一郎「痴人の愛」(1924年)の冒頭。「ざっくばらん」などと言われると、どんなにものすごい夫婦の話が始まるのかと身を乗り出してしまう(のは恥ずかしいけど、乗り出しちゃう)。一方、《化石》の《ざっくばらん》には古生物学者が「どんなすごいことが?」と身を乗り出すかもしれない(こちらは恥ずかしくない)。

なお、掲句を収載する『筒井祥文川柳句集 座る祥文・立つ祥文』(2019年12月)は作者の没後に、樋口由紀子を編者に、富山やよい、くんじろう両氏を発行人に発行された。

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