2022年2月23日水曜日

西鶴ざんまい #22 浅沼璞


西鶴ざんまい #22
 
浅沼璞
 

化物の声聞け梅を誰折ると  裏一句目(打越)
 水紅ゐにぬるむ明き寺   裏二句目(前句)
胞衣桶の首尾は霞に顕れて  裏三句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句目のはなれ」の吟味にかかります。ここでの転じは、因果関係をたどると分かりやすいようです。

打越/前句では「明き寺」になった原因が「化物」なわけで、いわゆる異物の付けです。

かたや前句/付句では「明き寺」になった原因が「胞衣桶の首尾」なわけで、恋の付け。

同じ結果(前句)から打越とは別の原因を描くことによって恋へと転じたのが付句という次第です(裏も三句目ですから、恋も出所かと)。

さらにいうと、打越≪原因≫→前句≪結果≫の付けから、前句≪結果≫→付句≪原因≫という逆付(後ろ付)への反転でもあります。
 
 
 
以上を「眼差し」の観点からみるとどうなるでしょう。

結果を描くホラー作家の「眼差し」から、新たな原因を描く風俗作家の「眼差し」へと転じているのがわかるでしょう。

浮世草子作家としてのさまざまな眼差しは、俳諧の「転じ」によって培われていたわけですね(このへんは拙著『西鶴という鬼才』を参照頂ければ幸いです)。
 
 
 
さて、前回の拙稿に対する若殿(若之氏)の返信をこのへんで――

〈付け筋のことですが、「胞衣桶」は水をくむものではないとしても、「水」と「桶」は縁語ですよね。「明」と「顕」も、わりと字義が通じているような気もします。逆付けが本筋というのは確かだと思いますが、案外、言葉でも前句にしっかり付いている印象を受けました〉

なるほど、この若殿の印象から導き出せるのは、逆付の疎句ながら、詞付の親句が基調になっている、という逆説(≒真理)です。
 
むろん詞付に関する記述は自註に一言もありません。いわば全無視。これは以前、#3ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい #3 浅沼璞でもふれたことで、親句から疎句をひねりだす談林西鶴の意地をみるような気がします。
 
 
 
「そやで、親句なくして疎句はなしや」

要するに詞付の隠し味なくして、疎句の美味なし、ということですね。

「そや、なくして→なし、失くして→無し、おもろいやろ」

いや、言いまわしの部分ではなくて、要は古い詞付も秘すれば花というか――

「――せやから、失くして→無し、や」

……わかりました。
 

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