浅沼璞
水紅ゐにぬるむ明き寺 西鶴(裏二句目)胞衣(えな)桶の首尾は霞に顕れて 仝(裏三句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
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「胞衣」は胎児を包んだ膜・胎盤・臍帯などの総称。「胞衣桶」はそれを入れる桶で、恵方を選び、縁の下や墓地等に埋めました。
「首尾」は事のてんまつ。「胞衣桶の首尾」で恋句になります。
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句意は「胞衣桶のてんまつが霞の中から露見して」といった感じ。
前句の血の池地獄のイメージから、産血(うぶち)を連想しての付けでしょうか。
かなり飛躍があるようですが、そこは自註をみてみましょう。
「……いかに世間寺(せけんでら)なればとて、魚鳥を喰ふのみか、見事な者をしのび抱て、後にはやゝうませける事、旦那聞き付け、傘(からかさ)壱本にして追出されし。是は見ぐるしき取沙汰也」
当時、僧侶の肉食妻帯は、思うほど一般的でなかったようです。
「……いかに世間寺(せけんでら)なればとて、魚鳥を喰ふのみか、見事な者をしのび抱て、後にはやゝうませける事、旦那聞き付け、傘(からかさ)壱本にして追出されし。是は見ぐるしき取沙汰也」
当時、僧侶の肉食妻帯は、思うほど一般的でなかったようです。
意訳すると「……いかに世俗化した寺とはいえ、魚や鳥を食うだけでなく、美しい女房を隠れて抱き、そののち赤子を生ませてしまった。その事を檀家が聞き付け、慣習どおり唐傘一本だけ与え、追放――これは醜聞というほかない」といった感じです。
つまり「明き寺」となった原因を「胞衣桶」に求めたわけで、一種の逆付け(『婆心録』)。前句(原因)/付句(結果)とは逆に前句(結果)/付句(原因)となるので逆付けというわけです。【注】
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では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。
霞にて隠す産血のあまたなる 〔第1形態〕
↓
胞衣桶の首尾は霞に顕れて 〔最終形態〕
このように最終形態はやはり「産血」の《抜け》と解釈できます。
また「霞」は実景であると同時に、ベールの意味も含んでいるのは言わずもがな。
「〈霞に顕れて〉はわての十八番やで」
たしかに『大句数』(1677年)にも〈竜の息雲に霞に顕れて〉という第三がありましたね。そういえば雲も霞も天象、しかも聳えたなびく天象ですから、ふたつとも聳物(そびきもの)かと。
「そやけど、ベールいうんは何や」
やはり聳物のひとつです……(笑)。
「ふーん、霞めいたこと言いはるな」
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【注】連歌の四道における逆(向付けの一種)を「逆付け」という場合もあります。
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