2015年11月20日金曜日

●金曜日の川柳〔竹井紫乙〕樋口由紀子



樋口由紀子






私より高い所に奈良の鹿

竹井紫乙 (たけい・しおと) 1970~

奈良に行ったときの写生句かもしれない。ふと気がつくと鹿が中腹にいる。どうってことない景であり、思い当たる景である。ただそういっているだけだが、一句になるとそれ以上の感慨をもった。なぜ私がこっちに居るのだろう。早くここまでおいでよと鹿に言われているようでもある。

姿や位置は違っても、時間はいままでもこれからも同じように流れていく。鹿のうしろには若草山が広がり、その向こうに空がある。世界は広く、空のにおいもしてきそうである。「奈良の鹿」に独自の存在感がある。高い所にいたのは恋人でもライバルでもなく鹿というのもまたおかしい。

〈あれはダメこれもイケナイぬいぐるみ〉〈ゆっくりとインクの染みが馬になる〉〈長いこと祖母は私の象だった〉 『白百合亭日常』(あざみエージェント 2015年刊)所収。

2015年11月19日木曜日

●サンドイッチ

サンドイッチ

サンドイッチ頬ばるスケート靴のまま  土肥あき子

実のあるカツサンドなり冬の雲  小川軽舟

冬空やサンドヰッチのしつとりと  田中裕明

噴水のひときは高しカツサンド  太田うさぎ〔*〕


〔*〕『なんぢや』第30号(2015年8月27日)


2015年11月18日水曜日

●水曜日の一句〔大牧広〕関悦史


関悦史









春の夜の大河ドラマはすぐ叫ぶ  大牧広


筆者個人はこの数年テレビ無しの生活をしているので、最近の作品は見ていないのだが、大河ドラマはそんなシーンが多かった。

合戦の際の号令といった、大声を上げてしかるべきシーンでの大声ではない。武将が食事中に注進が入るとやおら立ち上がって飯粒噴き出しながら叫んだり、合議や談判がこじれたときに叫んだりする、今の日常生活であればいきなりここまで振り切れることはないであろう場面での叫びである。

あの叫びは、顔のドアップの多用と並び、描写というよりは説明に近いものだろう。

説明が多くなればなるほど、作品としては弛緩し、安手になる。テレビなので仕方がない。自室で他のこともしながらだらだら見られるであろうものを、黒澤映画のような緊密な作り方をしたら、視聴者はちょっと気を抜いたら何の話かわからなくなる。

大河ドラマは、日本国民が共有すべき歴史的物語を一年間の長きにわたって映像化しているという趣きのものだが、それが実際にはどうしても安手に仕上がる。

「春の夜」という緩いつけ方の季語が、その安手さをややうんざりしながらも受け入れる。結局、本放送につきあって見てしまっているのだ。

あるあるという共感で成り立つ句だが、実際の戦火や修羅場が遠いままで済む(または済んだ)時代としての現代をこの「春」は肯っている。


句集『正眼』(2014.4 東京四季出版/2015.7 俳句四季文庫)所収。

2015年11月17日火曜日

〔ためしがき〕 なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか 福田若之

〔ためしがき〕
なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか

福田若之

»承前

もちろん、「発句」という語にそれなりの歴史的文脈があるのは承知している;「俳句」という言葉によって、ようやく、僕らがそうした「発句」から抜け出たところにある自由を確立することができたということも。

俳諧の発句を縮めて「俳句」である。それがさしあたり季語と切れ字を含む独立した五七五の形式を指す言葉として定着したのは、発句に自立的な価値を見出したのが俳諧の連歌の書き手だったから、というだけではないだろうか。

「俳諧味」と人が呼ぶもの: 軽妙さ、風狂、滑稽、おかしみ、などなど。 → これらはこれらで魅力的ではある(それを否定するつもりはない)。けれど、これらは別に、必要なものでもなければ充分なものでもないのではないだろうか:「俳諧味」に重きを置くのは、「発句」の数ある魅力的なありかたの一つにすぎないのではないだろうか。

「俳句」という言い方には一つの価値判断がすでに織り込まれている。そう考えると、バルバロイになってしまうかもという懸念は当然あるけれど、あえて「発句」と言いはじめてみたいという気持ちが湧いてくる;そのほうが、なんだか自由になれる気がする。

2015/11/4

2015年11月16日月曜日

●月曜日の一句〔柏柳明子〕相子智恵



相子智恵






焼藷の声のうしろの暮れてゆく  柏柳明子

句集『揮発』(2015.9 現代俳句協会)より

一読「ああ、冬だな」と思う。

焼藷屋の屋台が流す「いーしやぁーきいもー、おいもー」の声に振り向いて見ると、屋台の後ろには夕闇が迫っていた。冬の日暮れは早い。

〈声のうしろ〉が眼目。聴覚と視覚が混在している。写生句として見たものだけで構成すれば「焼藷の屋台の後ろが暮れてゆく」ということになる。それを〈声〉としたことで、焼藷屋の存在は消され、独特の染み入るような呼び声のみが脳裏に浮かび、〈うしろの暮れてゆく〉の寂しさが際立つ。それによって「ああ、冬だな」感も増すのである。また、聴覚と視覚の混在が世界の奇妙な捩じれを生み出し、黄昏時の異界性まで表現されているようにも思う。

「暮れにけり」のようにきっぱりとした切字を使わず、〈暮れてゆく〉と茫洋とさせているのも〈声のうしろ〉の不思議な感覚とよく合っている。