2016年2月29日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木多江子〕相子智恵



相子智恵






春満月この世に生まれ臍ひとつ  鈴木多江子

「俳句」3月号「臍ひとつ」(2016.2、角川文化振興財団)より

言われてみれば、この世に生まれた誰もが臍をひとつ持っている。臍は、一本の臍の緒で母とつながっていた痕跡である。連綿と続く人類の「つながり」の痕跡だ。

生命の歴史や進化という言葉は、普段は教科書に載っていることのように遠い。しかし臍を見れば、その痕跡を身近に感じることができるのである。

滴るような春満月の取り合わせによって、一句に大きな時空間が引き入れられている。潮の満ち引きは月と関係しているが、一説によると、満月の日は出産も多くなるらしい。生命が歴史を刻む間ずっと空にありつづけた月と、〈臍ひとつ〉につながりの痕跡をとどめる私たちとが響きあっている。

2016年2月27日土曜日

【みみず・ぶっくす 59】エアー病 小津夜景

【みみず・ぶっくす 59】
エアー病

小津夜景


 ことばの平衡感覚にささやかならぬ欠陥がある。日頃なにかを伝えようとするとかならず思っていたのとは逆のことを言ってしまうのだ。しかも指摘されるまでそれに気づかない。
 まったく自覚がないというのは何かの病気だろうか。
 もともとしゃんとするのが怖いというかそれを避けたい性分ではある。目がわるいのでものをよく見ることがなく、好んで聞くのはたわいない物音ばかりで、今日までの来し方を思い出すと飛び降りたくなるため昨日のことすら考えない。さらには生業が無我の境地をめざすことときている。
 そんなこんなで年がら年じゅう放心しっぱなしだ。
 このまえ浜辺で赤ん坊みたいによつんばいになって貝殻をあつめていたら、ふと近くのガードレール越しにこちらを指差している男の子を母親がむりやり引きずってゆくのがみえた。エアーおばさんだよ、という男の子の声がきこえる。エアーおばさん? 何だそれ。エアー、エアーといえば土方巽の「幽霊になぜ足がないのか。ところが幽霊でもああいう形態を保っているわけですね、何かが支えている。支えなければ浴衣と同じて落ちてしまう。支えているもの、エアーですね」しか思い浮かばないが。
 後日、エアーというのは雲の上でふわふわ傾いている感じのことだよ、と知人が教えてくれた。ふうんそうだったのか。もしかしたらじぶんが思っているのと逆のことを言うのも、なにかそういった無重力的なことと関係しているのかなあ。
 ところでこの病気、夫婦間ではなんの問題にもならない。「あれどこ」と夫に聞かれて「右の棚」と答えれば、夫はだまって左の棚を見にゆくから。イッツ・ノット・アンユージュアル。


モザイクの風すこしある沈丁花
コマ落としめいて遅日の走り書き
目ぐすりをくすぐる糸の遊びかな
クローバーしこたまつんで心が留守
地の果てや花を見ちがふ言ひちがふ
ストロボのそぼふる春のモアイ像
要約のやうに老ゆらむ桃の坂
いまさらの夜を慈姑と眠りこけ
田楽に死に至らざる病あり
紙芝居かすみの奥に呑み込まる

2016年2月26日金曜日

●金曜日の川柳〔花戦〕樋口由紀子



樋口由紀子






バレエの男ほど妻抱きあげたことがない

花戦

そりゃそうでしょう。あんなに高く抱きあげられたら妻の方だって困る。そりゃ無理でしょう。足腰の鍛え方が違う。いつ落されるのかとひやひやとして、ただ怖いだけである。決してそんなことはしないでください、望んでいませんから、と思いながらも、あんなにスマートにひょいと持ち上げられたらやっぱり嬉しいのかもしれないと思ったりもした。

男の人ってバレエを観て、そんなところに感心して、そんなことを考えているのかと、予想外だった。なんだか微笑ましい。女の人はバレエを観て、夫にあれほど高く抱きあげられたことがないと思うのだろうか。すくなくとも私はなかった。ダンサーのお腹が出てなくて、かっこいいと思うけれど、そこまで止まりだった。

2016年2月25日木曜日

【新刊】大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳①愛と恋

【新刊】
大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳①愛と恋



2016年2月24日水曜日

●水曜日の一句〔大野すい〕関悦史


関悦史









芋虫や真面目に薬飲みつづけ  大野すい

「芋虫」と服薬という取り合わせ、普通に取れば、他に移動の手段を持たない芋虫が地道に這っていくさまと、「真面目に」欠かさず薬を飲み続けるさまが隠喩的に通じあっているということになるのだろう。

そう取ってしまえば、意味的にも過不足なく理解できてしまう句ではあるのだが、しかし「芋虫」との取り合わせは意外でユーモラスである。

薬を飲んでいる語り手当人はあくまで「真面目」なのだ。作者本人にもおそらく過剰にふざけてみせようという意図はない。そこがかえって妙におかしい。自分が真面目に成し続けている作業の喩えとして「芋虫」を持ちだす人が普通いるであろうか。あの進み方の柔らかい蠕動運動が、真面目さが持つ硬直ぶりをおのずと裏切ってしまうのだ。

さらには真面目に薬を飲み続けた結果として、「芋虫」に変身しそうな奇妙な気配、いやむしろ「芋虫」たることを目指しているような気配も、この句からは感じられる。

「芋虫」がめでたく蝶になれば全快ということにもなろうが、そこまで読むと理に落ちる。

「芋虫」のようにもこもこと薬を飲み続ける日常の営みそのものに、ある種の幸福が宿っているのである。


句集『雪あそび』(2016.2 本阿弥書店)所収。