2016年5月31日火曜日

〔ためしがき〕 こんなところでヤギたちと出会うとは 福田若之

〔ためしがき〕
こんなところでヤギたちと出会うとは

福田若之


総務課の我妻悟さん(34)は、「ヤギたちは冬の間にやせた。心ゆくまで草を食べてもらいたい」と話す。
(鬼頭恒成、「除草係のヤギ、「職場復帰」――JR立川駅近く 4ヵ月ぶり」、『朝日新聞』、2016年4月14日付朝刊、多摩版、25面)
この、「ヤギたちは冬の間にやせた。心ゆくまで草を食べてもらいたい」ということばを、短歌としても読みうるような気がするのは、僕が短歌のことをよく知らないからというだけなのか、それとも、短歌のことをよく知る人たちにとってもそうでありうるのだろうか。

いずれにせよ、この多摩版の片隅に僕にとって短歌として読みうる言葉を発見したことは、あの立川駅の近くでヤギたちと出会うことと同じぐらい、うれしいおどろきだったには違いない。

2016/4/14

2016年5月30日月曜日

●月曜日の一句〔髙柳克弘〕相子智恵



相子智恵






日盛や動物園は死を見せず  髙柳克弘

句集『寒林』(2016.05 ふらんす堂)より

先日、象のはな子が死んで横たわったニュース映像を見て「これは特別だ」と思ったのは、私の心の中にこの句がずっとあったからだ。

〈山青し骸見せざる獣にも 飯田龍太〉のように、死ぬ姿を見せないという動物の本能を描くのとは対照的に、生きている動物を見せる動物園を管理する人間が、死後も動物を管理し、観客の目に動物の死体をさらすことはないという、どこまでも人工的でクリーン(?)な状態を描いた句。それも「日盛」という、神経をとがらせるような暑苦しさ、隅々まで夏の光に照らされた明るさの中で。

美しく秩序をもって作られた世界の裏側にある「見せないこと」に対して、作者はとても敏感である。同句集の代表句のひとつである〈嗚咽なし悲鳴なし世界地図麗らか〉の世界地図の美しさも同じだろう。

一方で〈見てゐたり黴を殺してゐる泡を〉という句があって、ここにはカビ取り剤を黴に噴射し、その泡が黴を静かに殺していく間を見ているのだが、泡を噴射したのは自分だろう。それを傍観者のように眺める視点は、動物園の句と詩の根は同じである。

CMで流れる“殺す商品”といえば、殺虫剤とカビ取り剤で、それが生き物を殺すという感覚もなく、クリーンな生活の共として私たちは見ているし、使っている。動物園では生きている動物は見るけれど、死んだ動物は見ない。そうして日常はつつがなく流れているのだということを、これらの句によって突き付けられるのである。

2016年5月28日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2016年5月27日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井麗水〕樋口由紀子



樋口由紀子






ちちははの姿勢で渡る丸木橋

酒井麗水 (さかい・れいすい) 1942~

「ちちははの姿勢」とはしゃきっと背筋を伸ばした姿勢だろうか、それとも背を丸めた穏やかな姿勢だろうか。多分、前者であろう。丸木橋は一本の丸木を渡しただけの橋、安定性はない。心して渡らなければ川に落ちてしまう。丸木橋を渡るは人生を過ごすと同義であろう。そのように意識して生きてきたのだ。

「ちちはは」「丸木橋」と舞台設定はオーソドックスで、今の感覚からすると多少古めいているが安心して読むことができる。当時の女性が持っていた潜在的な意識をうまく表現し、父母に対する心の持ちようが感受できる。「橋」とは不思議なものだとあらためて思う。『橋を渡る』(吉田修一著)を読んでみたくなった。「魚」13号(1981年刊)収録。

2016年5月25日水曜日

●水曜日の一句〔上田貴美子〕関悦史


関悦史









ぺん執るや言葉ひつこむ十三夜  上田貴美子


書くべきモチーフが視野の端にちらちらしながらもそれを「書けない作家」という主題は、古い純文学などでよく目にした気がするのだが、この句においては、その描かれようがいかにも軽快で、あまり深刻な苦悶は感じさせない。

モチーフが捕まえきれない悩ましい状況であるにもかかわらず、それを語る上五中七の「ぺん執るや言葉ひつこむ」という対句的表現が、あたかも漫才の掛け合いか餅つきのようなワンセットのリズムを成し、語り手が悩みのなかにうずくまることを許さないからである。こうした状況は何も今回が初めてではなく、いつものことであるらしい。そしてそれを自分で茶化している。言葉となる以前の「前言語的地熱」(蓮實重彦)の高揚と、いざそれを文章化しようとする際に立ちあらわれ、方向をそらしてしまう紋切型表現の相克といった事態が一句の中心を成しているわけでは、必ずしもないのである。

「十三夜」が呼び起こすイメージはまずもって明月である。この点も「書けない」ことの苦悶という主題を一句から遠ざける。「十三夜」月は、そのわずかな陰り・欠落によって、言語化できていない・書けない領域の隠喩を成しているというよりは、書けずにいる状況全体を天から照らし出し、言葉がひっこんでしまったらそれはそれでいいではないかとでも言いたげな明澄な自足を一句に呼び込んでいるのだ。

あるいはこの「十三夜」は、ひっこんでしまった「言葉」と入れ替わりに、その代償として天空にあらわれたのかもしれない。そうであるならば、もはやあえて苦労して言語化する必要もなく、ただその現前と幸福感を享受すればよいというものではないか。……という事態がこの句では言語化されており、しかし句中の語り手はそのことにおそらく気がついてはいない。


句集『暦還り』(2016.4 角川書店)所収。