2017年1月31日火曜日

〔ためしがき〕 「どう抒情するのか」という問いにどう答えるか 福田若之

〔ためしがき〕
「どう抒情するのか」という問いにどう答えるか

福田若之


問い得るのは「どう抒情するのか」でしかないとしても、この問いに対して一般解を用意するならば、結局は、「そもそも抒情って何だ?」という問いに答えてしまうのと同じことになってしまうだろう。

「どう抒情するのか」に対する答えは、つねにそのつど、抒情の実践によって示すほかないように思う。「どう抒情するのか」に対する答えとなりうるのは、つねにそのつど、次の一句でしかない。

(もちろん、俳句は必ずしも「どう抒情するのか」という問いに答えなければならないものではないのだろう。その意味では、俳句は必ずしも抒情詩ではないのだろう。だが――)。

2017/1/26

2017年1月30日月曜日

●月曜日の一句〔中原道夫〕相子智恵



相子智恵






白魚の目のやり場なく集まれる  中原道夫

句集『一夜劇』(2016.10 ふらんす堂)より

小さな白魚がびっしりと集まっているということは、あの黒い点々の目玉もびっしりと集まっているということだ。哀れでもあり、じっと見ていると、そら怖ろしくなってくる大量の白魚。なるほど〈目のやり場なく〉である。

目のやり場がないのは作者であるが、最初から読んでいくと「白魚の目の」がまず飛び込んでくるので、どうしても魚の目が無意識のうちに浮かび上がる。それが哀れさや不気味さを増幅させて、〈目のやり場なく〉がさらに実感できるように思われた。

  白魚のさかなたること略しけり 中原道夫『蕩児』

は、作者の初期の代表句の一つ。見たままを描くいわゆる写生ではなく、言葉で描かれた白魚だ。そこから数十年を経て、白魚のびっしりと集まった様子を、これまた直接描写することなく〈目のやり場なく〉と見る者の主観を通じて描く。どちらも実物の白魚に直接触れないような、周りに薄いヴェールをかけたような言葉先行の描き方なのだが、それがいちばん白魚の本質を突いて、「見えて」くるように思われるのである。

2017年1月29日日曜日

●金閣

金閣


京寒し金閣薪にくべてなほ  中村安伸〔*〕

仏壇に似し金閣よ水を打つ  岩田由美

秋風か金閣の金掠め盗る  中原道夫


〔*〕中村安伸句集『虎の夜食』(2016年12月/邑書林

2017年1月27日金曜日

●金曜日の川柳〔徳田ひろ子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ヨーコさんはうちに帰ってしまわれた

徳田ひろ子 (とくだ・ひろこ) 1956~

私のまわりにもヨーコさんがたくさんいる。洋子さん陽子さん葉子さん、わりとポピュラーな名前である。「ヨーコさん」と表記。「ようこさん」と呼ばれているのを聞いているだけで漢字でどう書くかを知らないのだろう。でも「ようこさん」ではない。「ヨーコさん」や「帰ってしまわれた」の言い回しに作者の思いや距離をおしはかることができる。

なぜ帰ったかの理由も聞けるほどの間柄でもない。しかし、ヨーコさんが居なくなって心にすっぽり穴が開いたような気持ちになった。別に話さなくても彼女と同じ場に居るだけでよかったのだ。なにかあったのだろうかとも思った。さりげなく書かれた一句にいろいろと想像が膨らむ。掌編小説のような味わいもある。掲句は第19回杉野十佐一賞の兼題「消」の入選句。

〈私はこういう者ですと宙返り〉〈コスモスは怖いぞ泣いたふり死んだふり〉〈バケツから手が出て足が出てきた夏〉 『青』(2016年刊)所収。

2017年1月26日木曜日

●百年

百年


百年後のいま真白な電車がくる  小川双々子

祖母の陰百年経てば百日紅  高野ムツオ

風鈴を百年同じ釘に吊る  山崎祐子〔*〕

蟬の穴のぞき百年後の生家  鳥居真理子

柩へと百年ぶんの月あかり  櫂未知子


〔*〕山崎祐子『葉脈図』(2015年)