2023年3月31日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






「ははーんさては」が回る山手線

きゅういち 1959~

春休みに孫娘のお供で山手線に乗った。新大久保、原宿、渋谷、目黒、秋葉原など九つの駅を乗降し、ぐるぐる回った。乗車中はただ前へ進んでいるので、回っている感覚はない。

一周回ると振り出しの駅に戻る。「ははーんさては」と路線図を見て知る。しかし、掲句は「ははーんさては」が回るという。音なのか、意味なのか。言葉に定着できない感覚がぽかりと浮かぶ。理性とは違う目の付け所がある。「ははーんさては」を十分理解できないけれど、そこにすっとぼけた感じの、疑い深い、懐かしさがある。その言葉が現場を捉える。

2023年3月24日金曜日

●金曜日の川柳〔弘津秋の子〕樋口由紀子



樋口由紀子






手を広げピーターパンについて行く

弘津秋の子 (ひろつ・あきのこ) 1948~

ファンタジー性のある川柳だが、なんだか身近に感じる。今居るここからどこか遠くへ行きたいとは誰もが一度は思う。「ピーターパンについて行く」がとてもいい。どこかに行きたいと思っても、さてどこに行けばいいのか見当がつかない。「ピーターパン」なら間違いなく希望の場所に連れて行ってくれるそうである。

日常生活で手を広げることがあまりない。広げても角度はせいぜい30度止まり。この角度は心の角度かもしれない。意識しなければ手も心も広がらない。そうすることによって、そう思うことによって、自分を変えていく。作者の生活感や価値観、日常そのものにクリエイティブを参加させている。

2023年3月22日水曜日

西鶴ざんまい #41 浅沼璞


西鶴ざんまい #41
 
浅沼璞
 
 
春の花皆春の風春の雨     打越
 朽木の柳生死見付くる    前句
跡へもどれ氷の音に諏訪の海  付句(二オ1句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

 
【付句】二ノ折(折立)、表1句目。 氷の音(春)。 諏訪の海=諏訪湖。

【句意】「後へもどれ」と氷がとける音に(危険を察知して叫ぶ)諏訪湖。

【付け・転じ】打越・前句=落花から「生死」で無常の付け。前句・付句=無常から危険察知への転じ。柳から諏訪湖で水辺(すいへん)の付け。

【自註】信州諏訪の湖に厚氷のはりて、そも/\に狐のわたり初めてより、人馬爰(こゝ)を越ゆ。是を氷の浮橋ともいへり。又、春になりて狐のわたり帰るを見て、其(その)日より渡り絶えける*。不思議に消え侍る。其時、氷に音有り。是に「氷の音」「氷のひゞき」春の言葉になしける。柳は水辺の物なれば、是にて湖を付け寄せ、生死(しようじ)は大事*のうきはしをわたるに思ひ合せて付け侍る。
*この狐の伝説は『西鶴諸国ばなし』(1685年)、『難波土産』(1693年)等にもみられる。
*大事=上下に言い掛けとなっている。[新編日本古典文学全集より] 

【意訳】信州の諏訪湖に厚い氷がはって、さてさて狐がそこを渡りはじめてより、人馬もここを越えていく。これを氷の浮橋とも言っている。また、次の春になって狐が渡って帰るのを見て、その日より往来が絶える。不思議と氷は消えるのですが、その時、音がする。これが「氷の音」「氷のひゞき」で(俳諧では)春の季の詞としている。(同じく俳諧において)柳は水辺の題材であるから、これに湖を付け、生死は「一大事」ということで、浮橋を渡る「大事」を思い合わせて付けているのです。

【三工程】
(前句)朽木の柳生死見付くる

 危なきを知りては先に心せよ  〔見込〕
    ↓
 厚氷薄くなりゆく危ふさよ   〔趣向〕
    ↓
 跡へもどれ氷の音に諏訪の海  〔句作〕

前句の「生死見付くる」から危険察知の教訓性をみとめ〔見込〕、〈春にどのような危険があるか〉と問いかけつつ、柳=水辺から氷の事故を想定し〔趣向〕、諏訪湖の「氷の浮橋」という題材・表現を選んだ〔句作〕。



今の歳時記では「御神渡り」として載ってる自然現象ですね。

「そや、その言い伝えと竜宮伝説を足して二で割ったんが『諸国ばなし』の話や」
 
なるほど。しかしここ数年、地球温暖化のせいか「御神渡り」は確認されてないらしいんですよ。
 
「らしいって、人ごとのように言うとるけど、そんなんでええんかいな」
 
いや、世間では「持続可能な開発目標」というのを掲げ、SDGsという言葉が飛び交ってるんですが……。
 
「? わざわざそうせなあかんいうこっちゃろ。とっくに持続不可能になっとった証しやないか。じきに伝説も季語も死に体になるんは必定やな」
 

2023年3月20日月曜日

●月曜日の一句〔尾崎紅葉〕相子智恵



相子智恵






星食ひに揚(あが)るきほひや夕雲雀  尾崎紅葉[明治29(1896)年]

高山れおな著『尾崎紅葉の百句』(2023.1 ふらんす堂)所収

星が見え始めた春の夕暮れの空を、星を食べに行くかのような勢いで、高く舞い上がる揚雲雀。声に導かれて目を凝らしてみれば、地味な雲雀は夕空に微かな黒い点となって遠くに小さく飛び回っている。

雲雀の鳴き声はハリがあって美しいけれど、せわしなくて必死な感じがある。飛び方もバタバタと懸命だ。一羽の小さな鳥が、星を食べに行こうと勢いよく高く高く飛んで必死に鳴き続けている……この無謀さは、雲雀ならではの味わいだと思った。しかも、どうせ食べるなら、潤み始めた春の星がうまそうだ。何だか童話を読んでいるような気持ちになった。

高山氏の解説を少し引こう。
村山古郷は掲句を含む数句を挙げて〈擬人法のための擬人法〉を弄するものとして批判する。(中略)こうした批判自体が今やずいぶん時代がかって感じられる。一方、夏石番矢は掲句を〈大胆な想像を注入〉した作として賞賛する。当方が共感するのは番矢の方だ。
何かを食べるというのは鳥もすることだから、前者の擬人法というのも少し違うような気もするが、原文に当たっていないので正確な意図は分からない。〈大胆な想像を注入〉という後者の言葉の方は、今の私が読んでもしっくりくる。時代によって感覚や問題意識の在処の違いがあるのは当然で、そういったひとつひとつが網羅された解説が面白い。

この「百句シリーズ」は、どの作家のものも面白く読んでいるが、本書は一句鑑賞自体が尾崎紅葉のことも明治の文壇・俳壇のこともよくわかる解説になっていて、時代が立体的に浮かび上がってくる。表紙の惹句は「もう一つの明治俳句」。子規から始まる明治俳句とは違う流れの豊かさを思った。

2023年3月17日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子






もう少し待てば戦前生まれだけ

水本石華 (みすもと・せっか) 1949~

「戦前」といえば、第二次世界大戦以前を思い浮かべる。1945年が終戦だから、1945年以前生まれの人ばかりになり、高齢化社会になるという警鐘なのだろうか。たしかに、出生率は年々最低を更新し、子どもの数は減り続けている。しかし、決して「戦前生まれだけ」にはならない。

「もう少し待てば」が意味深であり、怖い。その微妙な間で最悪のシナリオを書いている。昨年末にタモリが「徹子の部屋」で現在を「新しい戦前」と言ったことが話題になった。確かに戦争が身近に迫ってきていると感じる。掲句は痛切に今の世の中を浮き上がらせる。そうなって欲しくないと切に願う。「晴」(6号 2023年刊)収録。