2015年8月7日金曜日

●金曜日の川柳〔中川東子〕樋口由紀子



樋口由紀子






くるぶしにタバスコを振る夏だった

中川東子

どんな夏だった?と聞かれて、こう答えたら、不思議がられるだろうが、かっこいい。でも、内実は相当痛いはずである。いろんな夏があるがこんな夏はまあない。鋭敏な自己把握である。

くるぶしの不安な白、タバスコの刺激的な赤の対比。タバスコは辛味の強いソースである。そうするしかなかったのだろう。もちろん心象風景。それでもきりりとしない、引き締まらない、食えない私だった。理屈では片づかないものを理屈には合わない行動で推し量っている。身体性の川柳。掲句は「くるぶし」だが、中村冨二は「全身」だった。〈みんな去って 全身に降る味の素 冨二〉

〈新人類九十代を調査する〉〈行き止まれば影を立たせる白壁だ〉 「川柳カード」9号(2015年7月刊)収録。

2015年8月6日木曜日

●広島

広島


 広島の忌や浮袋砂まみれ  西東三鬼

八月広島もちの木はふと暗し  友岡子郷

左腕たまたま繃帶の女広島は  赤尾兜子

うなだれて八月がくる広島に  小山一人静

広島や卵食う時口ひらく  西東三鬼

2015年8月5日水曜日

●水曜日の一句〔曾根毅〕関悦史



関悦史








暴力の直後の柿を喰いけり  曾根毅


「暴力」の勢いが、柿を喰う動作にまで流れ込んでいて「喰いけり」が荒々しい。

柿を喰らっている者は暴力を振るったのか、振るわれたのか、目撃しただけなのかは何とも決めがたい。というよりも、この「暴力」の一語は、そうした平板なリアリズム的地平で説明し得る位置にはおそらくない。「殴った」「撃った」「爆撃した」といった具体的な動作とは別の次元にあり、それら全てを含み込んだ類概念としての「暴力」である。単なる曖昧化ではない。

その類概念としての「暴力」が、続く「直後」の一語でいきなり具体・個別の世界に持ち込まれる。「ウサギ」や「シマウマ」や「ライオン」に混じって「動物」が一緒に飛び跳ねているような混乱を「直後」が強引につなぎ、「柿を喰」うという個人の動作の身体性に落とし込むのである。

この「暴力」は語り手個人が暮らす現実空間にではなく、むしろ「法」とか「言語」といったものの中に住んでいる。人が抗いようもない、絶対的な、旧約的なイメージすら連想させる「暴力」。そうしたものに接し、流出させる通路として柿喰う身体は存在する。「柿」はそうした類概念としての「暴力」の世界を日本の風土と生活に繋ぎ、また歯応えでもって身体感覚にも繋ぐ。

この句では、自己の統御が利かなくなって振るわれる「暴力」、その「暴力」に吹き抜けられた後の身体の、荒涼たる高揚が捉えられている。それがそのまま「暴力」と自己の関係の洞察になっている。


句集『花修』(2015.7 深夜叢書社)所収。

2015年8月4日火曜日

〔ためしがき〕 アルフレッド 福田若之

〔ためしがき〕
アルフレッド

福田若之



アルフレッドに捧げる。 

             

「アルフレッド」――自宅のトイレで無意識のうちにそうつぶやいたとき、僕は、それが古い友達の名前だと確信した。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

だが、アルフレッド? どんな友達だったのか、僕にはまったく思い出せない。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

本当に僕はアルフレッドと友達だったのだろうか。いや、たしかに友達だったのだ。アルフレッドの名を呼ぶたびに、僕の全身は、なんとも書きようのない郷愁に満たされたのだから。――そう、僕は何度かアルフレッドの名を呼んだのだった。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

アルフレッド。イギリス人、いやアメリカ人だろうか。けれ小学校のときに同じクラスだったハーフの友達は別の名前だったいや、アルフレッドはそもそも人でさえないのかもしれない。マンガのキャラクター、あるいはぬいぐるみの名前――それもありうる話だ。アルフレッドについての記憶は、なにひとつ頭に残っていない。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

人のことを忘れるとき、そのはじまりはいつも名前だった。名前を忘れ、出来事を忘れ、おそらく、最後に顔を忘れる。いや、そうではないかもしれない。より正確に記すなら、人のことを忘れはじめていることに気づくのが、いつでも、名前を思い出せなくなっていることに気づいたときだったということだ。おそらく、完全に忘れてしまえば、忘れたことさえ気づくことはないだろう。だから、わからない。どうして僕は、アルフレッドを名前で、それもよりによって名前だけで、覚えているのか

夕焼けの自治体に撒かれる音色

アルフレッド。この謎を刻んでおこう。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

それにしても、自宅のトイレというのはあまりにもフロイト的すぎはしないか。正直に書こう僕は草稿の段階で一度、この出来事を町はずれの公衆便所で起こったというふうに脚色して語ろうとした。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

家のトイレで起こったことを町はずれの公衆便所で起こったこととして語ろうとすることは、それ自体、いかにも精神分析によって説明されそうなことだ。自宅のトイレは私的な場であるのに対し、町の公衆便所は公的な場だといえる。さらに、町はずれとい言葉は、この町に外があることを示している。他者を示唆しているのだ。だから、このことは、おそらく、私的な出来事を書かれたものとして公的な場にさらけ出すことにともなう何かしらの抑圧として説明されるのだろう。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

けどもし場所について嘘を書いたら、それが偽りの記憶を捏造し、僕はアルフレッドをいよいよ忘却の彼方へ葬ることになってしまうのではないか。そんな予感がして、僕は、自分が忘れないうちに、それをありのまま「家のトイレ」と書き記すことに決めたのだった。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

僕は人の名前をよく忘れる。一年も会わないと、親しかった友人を自分がどんなあだ名で呼んでいたのか、さっぱり思い出せないということがある。氏名を覚えていても、それをどう呼んでいたのか思い出せないのだ。そして、次に会うときにはもう名前を忘れている。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

僕はもしかすると、アルフレッドをアルフレッドとは呼んでいなかったのかもしれない。アルフレッドは、本当は僕がかつて決してそうは呼ばなかった誰かだったのかもしれない。アルフレッドという名は、僕にその気があったならいまでも忘れずに覚えていられたはずのあらゆる友達の名前の代替物なのかもしれない。とにかく、アルフレッド、僕は君をもう忘れたくない。

夕焼けの自治体に撒かれる音色

の文章の中でアルフレッドのことが思い出されることはついにない。これは小説ではないのだから。ある夏の夕暮れに、僕は家のトイレで「アルフレッド」とつぶやき、それが僕の友達の名前であることを確信した。僕はそれを書いた。それだけのことだ。それだけしか書けない。

2015年8月3日月曜日

●月曜日の一句〔涼野海音〕相子智恵



相子智恵






毛虫焼く炎一枝に絡みけり  涼野海音

「俳句」2015年8月号・精鋭10句競詠「星祭」(2015.8 角川文化振興財団)より

害虫である毛虫を焼き殺して樹木を守る。夏の季語である。

毛虫のついた枝ごと伐って振り落とし、焼いているのだろうか。毛虫を焼いた炎が一枝に絡んでいるということは、焼かれつつある毛虫が炎を上げ、身悶えしながら必死に一枝に絡みついているということなのだろう。毛虫が焼かれていくさまを透徹した冷静さで描き、確かな一句となっている。

「星祭」と題された10句は他に、〈海峡のひかりに開く落し文〉〈海の日の望遠鏡を拭いてをり〉〈時計屋の二階の灯る星祭〉など、総じてロマンティックな味わいの、穏やかな時間や美しい光が描かれた句が多い。その中で掲句だけは抜き差しならない瞬間が描かれているのであるが、一枝に絡む炎を見つめる目は耽美的でもある。毛虫が焼かれる炎の紅色と、夏の木の一枝の濃緑との対比が美しいのである。