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2026年7月24日金曜日

●金曜日の川柳〔西脇祥貴〕まつりぺきん



まつりぺきん





町、三時。つかれた指先のかなで  西脇祥貴

題は「さやさや」(矢沢和女選)。

「三時」とだけあり、昼なのか夜なのかわかりません。住宅地でしょうか、それとももっと長閑なところでしょうか。「街」ではなく「町」と書かれることで、繁華街よりも、どこか人の暮らしに近い場所を思わせます。

指先の動きは何かを奏でる運指のようでもあり、あるいは空気や風に触れているだけのようでもあります。「かなで」とひらがなに開いているせいか、微かに指先に触れる何かが、静かにさやさやと奏でられるような感触が。

そしてその指先は、何かを終えて「疲れた」とも取れますし、誰かに「勇気を出して行ってこいよ」と「突かれた」とも。

遠景から近景へというカメラワークも映画的で、物語性を感じます。

また、「町」と「三時」の間にそっと置かれた読点が、空間と時間を一息ずつ切り分けます。
その間が微妙なテンポを作り、「さやさや」という題から耳で読もうとしていたところへ、町の光景や指先の感触が不意に立ち上がってきます。

句会といえば聴覚主体のイメージですが、この句は耳だけでなく視覚や触覚まで呼び覚ますことで、静かな存在感を放っているように思います。

「らくだ忌」第3回川柳大会より。

2026年7月3日金曜日

●金曜日の川柳〔蟹口和枝〕まつりぺきん



まつりぺきん





かたちから入るタイプのぐりとぐら  蟹口和枝

『ぐりとぐら』は、双子の野ねずみを主人公にした有名な絵本のタイトルで、5音ということもあり、川柳でもよく使われます。
世代を超えてインストールされている言葉、と言っていいかもしれません。「ぐりとぐら」という響きそのものに、どこか懐かしく親しい感覚を覚えます。
そしてこの句は、その既知のリズムを巧みに利用しています。

まず、「かたちから入る」という上五は、「a」と「i」という明るく開かれた母音のみによって構成され、中七がさらに「aiu」の反復を添えることで、軽やかな律動を生み出しています。
一方、「ぐりとぐら」は母音だけを見れば決して単純ではありません。しかし、その不均質さは、むしろ共有された記憶の力によって自然に受容され、違和感を生じさせません。

「かたちから入るタイプ」という表現には、少し揶揄するようなニュアンスがあります。それを、あの純粋で愛らしい『ぐりとぐら』に重ねてしまうところに、この句のユーモアがあります。
少し皮肉でありながら、どこか優しい――そんな川柳らしい味わいを感じます。

「中途半端な」(『川柳EXPO2025―柳―』2025)より

2026年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔宇佐美眞一〕まつりぺきん



まつりぺきん





柔らかな拒絶の上に建てる塔  宇佐美眞一

「塔」と聞いて、何を思い浮かべるでしょう。五重塔、エッフェル塔、今なら東京スカイツリーでしょうか。
ただこの「塔」は、もっとプリミティブなもの――たとえばバベルの塔を連想させます。

単一の言語を奪われ、言葉を分かたれた人々が、相互の理解を断たれ、その共同性を失った物語。
そう考えると、「拒絶」という言葉にも納得がいきますが、この句はそこに「柔らかな」という形容を添えています。
拒絶という本来は硬い印象の行為が、なぜか柔らかい。断ち切りたいのに断ち切れない、人間の曖昧さが垣間見えます。

そして、その「柔らかな拒絶」の上に、また「塔」を建てるというのです。人間とは懲りないものですね(笑)
分断し、距離を取り、それでもまた新しい何かを築こうとする。まるで「今度こそ」と言いながら、結局は何度も同じ場所を歩いているように。

私たちは前進しているつもりで、実はメビウスの輪の上を歩いているだけなのかもしれない――そんな静かな問いを、この一句は投げかけているように思えます。

「フードコートへ放牧」(『ときどき放課後、ときどきパラソル』2025)より

2026年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔青砥和子〕まつりぺきん



まつりぺきん





副作用かもしれないプリン食べたい  青砥和子

「副作用」という言葉は、歩んできた人生経験や過ごした時間によって捉え方が変わりやすい、デリケートな言葉のひとつだと思います。

そういった少し重い語を頭に置いておきながら、軽やかにパロール味たっぷりな「プリン食べたい」。

重さをほんの少しやわらげています。何となくホッとしませんか?

前後の落差を考えると、破調でありながら口語的リズムがむしろ奏功しているように思います。

もし今後、「副作用」という言葉に多くの方がナーバスになる時代があったとしても、この句を思い出せば、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。

『雲に乗る』(2023)より。

2026年5月1日金曜日

●金曜日の川柳〔西沢葉火〕まつりぺきん



まつりぺきん





ライターの音を一切消した窓  西沢葉火

静謐です。

ライターの点火音のような小さな音さえも聞こえない、密閉された空間。

それを成し遂げる「窓」の存在感。

「一切」には、内と外とが完全に切り離された、隔絶の風景を殊更に強調するニュアンスがあり、内面的世界の象徴のようにも感じます。

しかし「窓」である以上、音は聞こえなくても、外からライターの炎が見えてしまいます。

むしろ、聴覚を遮断することで、わざと注目させようとしているのかもしれません。

火はまだ消えていませんよ、と。

『クラドフレビス・レインボー』(2022)より。

2026年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕まつりぺきん



まつりぺきん





マヨネーズ1本分の陽気です  藤井智史

さて、どうとらえましょうか。

マヨネーズ1本まるごと一気に使おうとするとなかなか難しいものですが、一生に使えるマヨネーズがたった1本とすれば、慎重にならざるをえません。

また、陽気も「春の陽気」のような気候・時候なら、限られた、貴重なあたたかさにも感じられますが、陰気に対する陽気のように性格を言い表すなら、それはそれで心中お察しいたしますという気分にもなります。

後者で読めば、場に水を差さないようにと、無理して陽気に振る舞っているようでなかなか辛いものがありますが、こう詠まれるとコミカルに感じられます。

「マヨネーズ1本分」というサイズ感で表すのが、絶妙ですよね(笑)

『十三月の追い風』(2024)より。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。

2026年3月6日金曜日

●金曜日の川柳〔森砂季〕まつりぺきん



まつりぺきん





プニヨンマ・プニヨンマ・ンマ・プニマンマ  森砂季

連作「プニヨンマ」の最後の句。

間寛平さんのギャグに「アメマ」というものがあります。(もちろん、芸として発話方法が面白いという部分はあるものの)なぜ「アメマ」という言葉が面白いのかを説明するのは難しいのではないでしょうか。

「アメマ」同様、謎の言葉である「プニヨンマ」は、この連作の中で挨拶だったり、万事休すの意味だったり、姉の名だったり、様々な可能性を示します。

とかく「ロジックが~」「エビデンスが~」と言われる時代、世の中の全てに意味があるという考え方自体が怪しく感じられてきます。

本来、何事にも意味なんてないのに、受け取る側が勝手に意味づけしているだけなのかも…と思わせてくれる一句。

『現代川柳句集プニヨンマ』(2024)より。

2026年2月20日金曜日

●金曜日の川柳〔翠川蚊〕まつりぺきん



まつりぺきん





ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン  翠川蚊

題は「星月夜」。

イメージの幅が広く難しい題で、月は出ていないが星が明るく輝いている夜を指します。
そこにロバという経済動物がいて、立てなくなってしまう光景。

「ここ 見てて」は映像作品を観ながら、視聴済みの主体が初見の相手に対し、これから流れるシーンを注視するよう促すイメージ。

そこには不能へと変化する何かに対する哀感や憐憫とともに、若干の嗜虐的興奮が滲んでいます。

また、差し込まれる一字空けには、どこか未熟な発話を感じます。

漆黒の闇ではなく、少し明るい夜だからこそ見えしまう残酷な何か。

かなりの飛躍を感じつつも、叙情性高く仕上がっており、味わい深い句になっているのではないでしょうか。

「海馬万句合」第二回より。

2026年1月30日金曜日

●金曜日の川柳〔江口ちかる〕まつりぺきん



まつりぺきん

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



海辺まですべっていった相撲取り  江口ちかる

題は「相」。

意味が通っているものの、「なぜ?」と思わされるタイプの句。

語の連結から生み出される印象は叙情性とは異なり、奇妙でコミカル。

浄化や美をイメージしがちな「海辺」という自然物から入りつつ、「まで」と限定することで、体重(=びくともしない)を意識させます。

「滑って」と漢字ではなく、ひらがなに開いた点も滑稽味を強調していて効果的。

「相」という題で「相撲取り」を連想すること自体はむしろ安易な印象ですが、その上がったハードルなど軽々と飛び越えてくる軽やかな句…相撲取りなのに。

第30回杉野十佐一賞より。