2018年4月30日月曜日

●月曜日の一句〔小滝徹矢〕相子智恵



相子智恵






草餅や縄文土器に調理痕  小滝徹矢

句集『赤道の国から』(雙峰書房 2017.10)所収

縄文土器に調理をした痕があったというのは、数年前に研究で明らかになったことのようである。現在の私たちと同じように煮炊きをしていた遥か昔の祖先のことを思いながら、草餅を食べている。草餅の起原もかなり古いようだが、草を練り込むところに原始的な感じがあり、どこか鄙びた和菓子である。木の実などを主食に食べていた縄文時代と遠く響き合う面白い取り合わせである。

2018年4月29日日曜日

〔週末俳句〕空き罐とSNSその他

〔週末俳句〕
空き罐とSNSその他

西原天気


SNSに関するこの把握。




俳句世間にも、共通部分がある。年齢層が上がるぶん、結婚や子どもや「クリームがめっちゃのったすごい飲み物」が少なくなる/なくなるかんじでしょうか。

ところで、俳人クラスターのツイッターを見ていて、かねてより思うこと、いくつか。

1 やたら締切に追われている。俳人全員が文筆業か?と思うくらいに。

2 突然、根本的な俳論が始まったりするが、かなりの割合でスルーされる。

3 レイバンのサングラスの広告が定期的に出現。


『鷹』2018年5月号をめくる。南十二国「俳句時評:詩人の仕事』は、『俳句』2018年2月号の高野素十特集をよくまとめて、そのうえで持論を展開。興味深い。
俳句作品から受ける印象が、必ずしも作家の人物像に一致するものでないことは大方の知るところであろう。(…)俗世間に生きる俗人としての自分が、その世俗的な気分のままで俳句を詠むのではない(…)詩人が詩人の仕事に取りかかるとき、そこには必ず俗気にまみれた日常の「我」から精気ただよう非日常の「われ」へと飛躍するための人格変換が行われるのである。
これに首肯する人としない人、両方がいるでしょうが、いずれにせよ、社会的人格と俳人としての人格は別のような気がします。さらには、ネット人格も別。


きれいなブリキ罐は、何かに使いたくて取っておくでのですが、でも、使い途がなくて、やがて廃棄。

BLOSSOM TEMPTATION(!)。ここにかつて入っていた何物かが、空っぽになって以降も永遠に魅了してくれるなら、使い途がなくても取っておきたい。

ちょっとロマンチックなことを言ってみました。

黄金週間の始まりですね。みなさま、健やかにお過ごしください。

2018年4月28日土曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


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俳誌を読む ≫過去記事

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そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年4月27日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子






終らないものにかけてるマヨネーズ

米山明日歌 (よねやま・あすか)

「終わらないもの」とは何だろうか。見通しのたたないもの、解決できないものだろう。作者の心のうちにある自我の痛みのようなものかもしれない。ピリオドを打ちたくても打てない。そういうときに人は自分なりのやり方で対処しようとするか、あるいは諦めの心境に切り替えようとする。

味をなんとかしたいときのマヨネーズは万能の調味料である。それを「終わらないもの」にぎゅっとしぼってかけてみた。マヨネーズにはなにがしかの霊力のようなものがそなわっていて、効き目があるかと思ったが、やっぱりだめである。「終わらないもの」は終わらないままにずっとそこに居続けている。それはそれでしかたがないことなのかもしれない。「マヨネーズ」で抒情を出すことができる。「おかじょうき」(2017年刊)収録。

2018年4月26日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








龍宮もけふの塩路や土用干 芭蕉

これも前回同様、延宝五年(一六七七)の作。

「も」によって、目に見えない龍宮を土用干の日に思い描く。読者は、「濡れる」と「乾く」の二つのイメージを行き来することになる。(龍宮は濡れているのだろうか?)「塩路」については、今日の慣用では「潮路」と置き換えて読めばよいと思う。考えてみれば、芭蕉と共通のイメージを持たせてくれる昔話というものはありがたいものである。仮名の配置のバランスもリズムを作り出している。

この句をどこで読みたいか、ということを考えることは楽しい。私たちは何をどうしてもどのみち龍宮には行けないのである。海から龍宮を想像したのが芭蕉なら、我々は畳にべったりとうつ伏せになって句の世界へワープしたい。