2009年8月9日日曜日

〔ネット拾読〕原監督曰く「異次元的な力が必要」

〔ネット拾読〕13
原監督曰く「異次元的な力が必要」


さいばら天気


はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。

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この週末、松山では「俳句甲子園」開催。各所ブログに記事が上がりつつあります。ブログ検索 ≫goo ≫yahoo

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blog「原石鼎」 http://blog.goo.ne.jp/basyou1936

岩淵喜代子氏が新設。「石鼎に関する情報やら評論やらを転載し、石鼎俳句の鑑賞もしていこうと思っている。/手早いひとなら、ひとりで毎日一句ぐらいの鑑賞は出来るのだろうが、それでは忙しくなりすぎるので、いろいろな方にお手伝いしてもらうことにした。」とのことで、「複数の書き手によるワン・テーマのブログ」というアイデアがおもしろいです。

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「新しさ」について、短歌分野のお話。

2009年8月3日(月) from ogiwara.com
新しい作家や新しい作品は、しばしば何かを欠いた姿であらわれる。新しい何かにこだわろうとするあまり、これまで重要だとみなされていた何かを欠いてしま うのは、ごく自然なことだろう。(…略…)われわれは、混沌とした新しい動きのなかから何をどのように取捨してジャンルと対峙してゆくべきなのか。基準も 指標もどこにもないのだが、一つ言えそうなのは、新しい何かが、何を欠いているかにこだわり過ぎないこと、何にこだわっているのかを探ろうとすること、だ と思う。
含蓄です。

何を欠いているかにこだわり過ぎないこと」。粗雑で陳腐な喩えになりますが、ウォークマンが登場したとき、「スピーカーが付いてないからダメ」って評はバカげているわけです。

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『俳句』誌の実作ノウハウ記事に触れた記事2本。

『俳句』2009年8月号を読む(山口優夢) from 週刊俳句・第119号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/08/20098_02.html
Hunter from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51198571.html

たしかにノウハウ記事がしばしば特集となる。レギュラー連載にもノウハウ情報が多いので(文法やら選句の基準やら添削やら諸々多数)、ノウハウ色は濃い。

80歳代の俳人が、俳句総合誌の話題になって、「どないしたら、ええ俳句がつくれるか、なんて、そんなもんがあったら、こっちが教えてほしい」と嘆いていたことを思い出す。世代を問わず、〝萎えて〟いる部分ではあるわけです。

ただ、雑誌をつくるという面から、あえて、上記2記事に異論を挙げるとする。
俳句ブームの時代に『俳句』の入門者向け企画を読み、俳句の道に入ってその後も俳句を作り続けているという読者がいると想定したなら、その人たちはもうそこそこ中堅の作家になっているのではなかろうか。/ある時期に入門者を意識して企画したなら、自分たちが育てた俳人たちの成長に合わせてその後も企画を成長させようと、なぜ考えないのだろう。(前掲・Hunter)
一般に雑誌は、読者とともに成長(加齢)するのではなく、ある層に向けて情報を発信しつづけ、対象層が入れ替わっていく。わかりやすい例は「小学一年生」。十代女性のファッション誌もそうだろう。『俳句』誌が、初心者あるいは中間層(に分厚い需要を見て、それ)をターゲットに記事をつくっていくという選択は充分に妥当性がある。ただ、実際の中心読者層がほんとうにそれを望んでいるかどうか(ニーズとの乖離はないか)が問題となるのだろう。
どうせ俳句論ではなくて俳句ノウハウを特集するなら、もっと巷に出回っている週刊誌のようなスタイリッシュな雑誌を目指せば良いのに、と、いつも思ってしまう。(前掲・山口優夢氏)
「スタイリッシュなノウハウ記事」というのは矛盾を孕んでいる。ノウハウはどだいスタイリッシュではない。程遠いものだ。なぜ、ノウハウをスタイリッシュに見せようとするかといえば、スタイリッシュという粉飾によって、ノウハウ情報がまとってしまう泥臭さから目を逸らさせたい、忘れさせたいからだ。例えば、青年誌・女性誌の「自分磨き」やらナンパ術(コミュニケーション法)などの多角的誌面構成。

そのあたりの編集の〝感じ〟を俳句総合誌が取り入れると、諸々の事情から(それなりに蓄積があるわけです。スタイリッシュ粉飾の技法には)、なんだかワケのわからない誌面、痛々しい誌面になってしまう危険性がとても高い。

きっと、俳句総合誌や結社誌が、ノウハウ情報を「論」として掲載しているのは、媒体の問題ではなく、「俳句」の現状そのもの(あるいは歴史も含めて)の問題でしょう。たびたび指摘されることですが、「いかに作るか」が俳句的言説の大きなシェアを占めている。さらにいえば、読むときでさえ、その句を「いかに読んだか」よりも、その句が「いかに作られているか」に焦点を当てたりする。

作句作法・技術論という大きな基盤(共通の話題)の上に「俳句」が載っかっているうちは、俳句媒体がノウハウを「論」じつづけることは、むしろ王道とも言える。皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、ノウハウ的言説は、俳句の持つ「業(ごう)」のようなものとして処するしかない。というか、その部分も、俳句という遊びの構成要素のひとつなんですよね。

やり方はあると思う。「アンチ・ノウハウ論」を対置させるとか、俯瞰(例:個別ノウハウの歴史的変遷)を持ち込むとか(ただし、これが巨大な紛糾の端緒になったりする。切れ字論などは、その一例。でも、あえて紛糾のジャングルへとみんなして突き進むの一興)。

ま、いろいろややこしいことは置くとして、「読んで、いますぐ俳句がつくりたくなる」ようなノウハウ記事なら楽しいと思うのですが、そうならない記事が多いというのが、ちょっと残念なところです。

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それではまた次の日曜日にお会いしましょう。

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