またビートルズの話かい?いやだね
中嶋憲武
きたやまおさむの「ビートルズを知らない子どもたちへ」という本を読んだ。世にビートルズ本はあまた出ているけれど、この本に食指が動いたのは著者がきたやまおさむ(北山修であり、ドクター・オサムキタヤマでもある)であったことと、表紙のユニオンジャックをあしらったデザインがイカしていたからである。
北山修は言わずと知れたフォークルのひとりであり、精神科医である。最近ではTBSレイディオの土曜ワイドにもちょくちょく出演して、永さんを相手に高笑いを発している。中学1年のとき、本屋で何気なく手に取った新潮文庫の一冊、「戦争を知らない子どもたち/北山修著」に感銘を受けて以来、北山修の書いたものをちょこちょこと読んで来た。そんなことで今回もラジオであらかじめこの本のことを聞いていたことも手伝って、書店で見かけてぱらぱらと拾い読み、すぐにレジへ持って行ってしまった。
うすうす気付いてはいたが、ビートルズは画面の機会均等主義を貫いた。このようなグループは空前絶後であるという指摘には全く持って頷いてしまった。ロックグループは、例えばストーンズであれば、ミック・ジャガーが、クイーンであれば、フレディ・マーキュリーが、一人の歌手が愛されるように設定されていた。ところがビートルズはジョンとポールという二枚看板を売り出し、ジョージとリンゴにもソロを歌わせてメンバー全員が愛される方法を実行したというのだ。この機会均等制はアルバムジャケットにも反映されたという。確かにその通りである。デビュー作から最後のレット・イット・ビーまで四人が均等に配置されている。そしてこのことは四人全員がスターであることを主張し、自分たちのプレイをマネージしてプレイの配分を行っている、プレイング・マネージャーだったとも指摘している。
ぼくたちはもうひとりの自分というものを、いつも意識している。朝、おはようと挨拶されて、おはようと挨拶を返すが、挨拶をしたくない自分も同時に意識していたりする。人はこのような二重構造にしょっちゅう囚われている。二重構造のきしみを生じさせないためにも、プレイング・マネージャーの存在が自己のなかに必要だというのだ。精神科医的なアプローチで、ビートルズという現象を読み解いていくこの本は、自己への旅でもあって読んでいて楽しい。あっという間に読了してしまった。
そういえば、今日、ビートルズのリマスターCDが発売された。モノラル盤とステレオ盤だ。ビートルズとしてはモノラル盤のみを出したかっただろう。ホワイトアルバムまではモノラル録音を中心にして行われていたからだ。それは当時の状況が、圧倒的にモノラルで聞かれていたし、ひとつの音の塊として聞かれたいというビートルズの思惑もあっただろう。しかしながらエンジニアたちはビートルズがレコーディングから帰ってからこっそりとステレオ盤も作っておいたのだ。いつか陽の目を見るかもしれないというささやかな希望を抱いて。リマスターって処理、よく分からないが、音は格段にいいらしい。
買うよ。まずステレオ盤のほう。
2009年9月10日木曜日
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