2010年3月11日木曜日

●ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2 山口優夢

【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2


山口優夢


「格子戸の奥」 石部明

格子戸の奥男根をぶら下げる  石部明

彼の句における肉体は、常に他の部分と切り離されて存在している。「瘤」「胸」「男根」「孔雀の喉の」「青」。これら本体から切り離された肉体の一部は、「蝶番」「カレー皿」「ポリバケツ」などの断片的な物象と同様に生と死の間の中有のような空間をさまよわされている。

だから、彼の句では、肉体的なあるいは生理的な感覚というものは生まれず、全ての肉体は徹底的に無機物と同様に感じ取られている。掲出句で言えば、「男根がぶら下がる」「男根をぶら下げて」などのように、単に裸の男の男根がぶらーんとしているような景を想起させる表現と、「男根をぶら下げる」という表現とは確実に異なっている。後者の表現では、男根はもともとぶら下がっているものではあり得ず、男根をぶら下げる行為を行なった人物がいるのであり、その人物の手によって男根は完全にモノとして扱われている。

つまり、生や死という言葉を入れた句が多いのとはうらはらに、彼の句から立ち上がってくるのは生や死といったものではなくて、逆に生や死が無化された、のっぺらぼうみたいな世界なのだ。なぜ彼はそのような世界を詠むのか。僕に思いつく答えは、彼自身がそういう世界にいるから、ということしか、あり得ない。



「キャラ」 石田柊馬

一般的に言えばかわいいくそじじい  石田柊馬

彼の句中に出てくるキャラ「卵焼き的キャラ」「スイカのキャラ」「水菜的キャラ」「蕪的キャラ」どれも具体的に思い浮かべることが容易ではないものばかりだ。このような句群の嵐に出会ったとき、我々のほとんどが、それぞれのキャラはどんなものか想像することを放棄してしまうのではないか。

それぞれのキャラを具体的に想像することとは異なる方向に読みを伸ばすことができる。それは、作者によるキャラの扱い方に言及することだ。「キャラ創れ」「体温で分ける」「キャラの違い」「分化せよ」。キャラとは、もともと人に付随しているものではなく、意図して創られるものなのである。しかし、なんのために?「分ける」ため、「違い」を出すため、「分化」するため、だ。

僕たちは、「卵焼き的キャラ」や「水菜的キャラ」といったまるで意味不明なキャラを無理して創りださなければ、互いの見分けがつかないくらい均質化されている、そういうことだろうか?これらの句群に読みとれる、高度に演出された「イタイ」感じは、均質な我々を無理に差別化しようとしたひずみとも言えるものではないか。

どうせみんな、かわいいくそじじいに過ぎないのに。



「ゴテゴテ川柳」 渡辺隆夫

カミのお告げで自爆するヒト  渡辺隆夫

彼の句は、どれも社会に対する悪意のある洒落で成り立っている。

「ANA糞だらけ」とか「全国一律」とか「くたびれ万年」とかいうあたりのフレーズにその悪意が遺憾なく発揮されているが、特に掲出句の「カミ」「ヒト」のカタカナ表記はそれぞれぐっとくるものがある。というか、それぞれのカタカナ表記の意味合いは、僕には少し違っているように思える。

「カミ」は、もちろん「神」を表しているが、「神」と書かないことによって「神」の意味性を剥奪している。それに対して、人のことを「ヒト」とカタカナ表記しても、人の意味性は剥奪されない。なぜなら、我々はこの表記をある場所では見慣れているからだ。それは、生物種としての「ヒト」に言及する際にはカタカナ表記をする、という慣習だ。つまり、「ヒト」のカタカナ表記は、自爆するのは個人としての「人」ではなく、生物種としての「ヒト」であることを示しており、もっと大胆な読みが許されるのならば、その行きつく先にあるものは、自爆するのは特殊な個人ではなく、あなたでもありわたしでもあり他の誰でもあり得る、ということだ。翻ってカタカナ表記された「カミ」を見ると、実は「神」のことを一種の生物種として見ているとも言える。日本語表記を利用した、大変高度な技巧だ。

しかし、それは技巧である。彼は言葉の技巧を磨き、それを誰もが共有できるフィールドの中で皮肉として流通させる。サラリーマン川柳の類の川柳が超絶技巧を施されているような印象を受ける。彼自身の感覚や感情は、おそらくわざと、縮退させられている。それが、彼が社会に対峙する方法論なのだろうか?

(つづく)

週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

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