2010年3月13日土曜日

●3D眼鏡を掛けて読む 上田信治

【週俳第150号を読む】
3D眼鏡を掛けて読む

上田信治


ある俳人に、今回の川柳特集の、感想をかいてもらえないかと頼んだところ、自分は川柳はどうしても面白く思えないのだと、言って断られた(そういう人もいるでしょう)。

川柳になくて俳句にあるものといえば「句中の切れ」と「季語」ということになるので、その人は「切れ」と「季語」のない十七音を、物足りなく感じるのだろうと、勝手にそう思った(違うかもしれない)。

いや「切れ」的構造を持った川柳のあることは知っているので、「季語」や「切れ」を意識した複層的な読みを予定していない十七音、と言い換えよう。

逆から言えば、俳句は最初から「季語」「切れ」などのローカルルールの指示に従いつつ、複層化した十七音「として」読まれる、ということだ。今思いついたのだが、それは、3D眼鏡を掛けて3D映画を観ることに、とてもよく似ている。

  はっきりと思い出せない猿の足  樋口由紀子

俳句的3D感を感じない、徒手空拳のたたずまいを持つ一行詩(穂村弘のいわゆる「棒立ち」か)。

たとえば、この「猿」を、むりやり冬の「季語」であると仮定する。すると、このはっきりとしない猿の足の踏んでいるのは雪で、背後には、風に飛ぶ雪がある。また、例えばこれが〈はっきりと思い出せない目白の足〉であることを想像すると、季語「目白」の足をわざわざ言ったということが前景化して、句中の話者は存在感を弱める。川柳としての元句が、キッチンかどこかに一人でいる、主人公を思わせるのと対照的で、だから、ここはぜひ目白ではなく猿でなければいけない。

つまり「季語」の指示する読みには、語のもつ情報による複層化(この場合は背景をプラス)と、一句の構造の複層化(季語と季語でない部分は、読者にとって見え方が違う)の、二方向があるということになる。

  サフランを摘めば大きな物語  小池正博

歳時記的にはクロッカスは春、サフランは晩秋ですが、それはさておき、吉岡實の「サフラン摘み」の西洋古代的な海辺の光景を漂わせつつ、青い空の下、「サフランを摘めば」(すなわち)「大きな物語」(がそこにある)(を想う)(に包まれているようである)・・・と、この句には、ジャンル分けが、いらなそう。俳句的な切れを手法として取り込んで、複層的です。

  生者死者数の合わないカレー皿  石部明

一読〈潜る鳰浮く鳰数は合ってますか 池田澄子〉を思わせる。俳句ルールを外して(川柳的に)読めば「数は合ってますか」と可愛く疑問形でおさめた「潜る鳰」は、切っ先が甘いようだが、「潜る鳰浮く鳰」のあとに、俳句読者は「切れ」を感じてしまうので、これは実景として、鳰が潜りまた浮く、ポチャッ……ポチャッ……という時間経過の中で生じた、どうでもいい疑問と読める。観念が、現実の時間に、ぽかりと浮かぶさまに、妙があるとでもいいますか(それにしても、池田は、川柳的に単層的な句で勝負することが多く、「鳰」の句も例外ではない)。

「カレー皿」は、「鳰」の句よりもシッポがつかみにくく、複雑かもしれない。「カレー」が夏(の季語)だとしたら「広島」ということかもしれず、そのほうが、川柳的な読みかもしれないが、ちょっと単純になる。

ややこしいのは、「数の合わない」が「生者死者」にかかるのか「カレー皿」にかかるのか、作者が決めてくれていないことで、語法的には「カレー皿」にかかるというのが順当だが、この句は「生者死者」の「数が合わない」と読んだほうが、面白いので困ってしまう。

前述の俳人の川柳に対する不満は、川柳がしばしば単層的であることと、語構成に厳密を欠くように見えることにあるのかもしれないと、思い至りました。(「カレー」の句のように、中七がどっちにでもつく形を俳人は「山本山」と言って嫌います)

厳密を欠くと言っても、それは川柳の読みが、俳句的にルール化されていないというだけのことかもしれず、だとしたら、それはほとんど言いがかりですね。取り消し取り消し。

というか、どうなんだろう。川柳の人から見たら、俳句的3D眼鏡というのは。


週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

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