ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・上
猫髭 (文・写真)
節分の高張立ちぬ大鳥居 原石鼎 大正3年
虚子が明治41年10月から大正4年3月までの「ホトトギス雑詠」を更に再選して『ホトトギス雑詠集』(四方堂)として一本にまとめ、初めて世に問うたのが大正4年10月であり、掲出句はその「節分」に一句だけ選ばれた石鼎の句である。初出には「大社」という前置が付いている。「大社」とは、「神宮」が伊勢神宮を指すように出雲大社を指す。石鼎は『出雲風土記』に出てくる「やんや」、現在の出雲市塩治(えんや)の生れである。「神宮」が天津神である天照大御神を祀るのに対して、「大社」は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した国津神である大国主神を祀る。
『古事記』の「大国主神の国譲り」に拠れば、天照大御神の使いである天の鳥船神と建御雷(たけみかづち)神は、出雲の伊耶佐(いざさ)、現在の簸川(ひかわ)郡大社町稲佐(いなさ)の浜に降臨する。大国主神は、天津神に対して国譲りをする条件として、出雲の多芸志(たぎし)、現在の出雲市武志(たけし)町に、壮大な「天の御舎(あめのみあらか)」すなわち「大社」を創建する談判をしたという縁起を持つ。
虚子は同じ年に、稲佐の浜に降臨した天孫のような鷲の句を選んでいる。
磯鷲はかならず巌にとまりけり 原石鼎 大正三年
虚子は磯鷲の句を『進むべき俳句の道』(大正七年)の中で、「鷲のやうな猛鳥が頑丈な岩の上にとまつてゐるといふ、棒を突き出したやうな粗大な叙景であつて、かならずといふ一字を捻出し得てその力強い光景と作者が表はさうと心掛けたところの心持とが適切に出てゐる」と評し、掲出句は「普通の言葉で穏やかに叙して、さうしてそれぞれの趣きを十分に出すことが出来てゐる」と石鼎の句幅を評している。
(明日につづく)
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