ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・下
猫髭 (文・写真)
昨年の一月は元日と三十日に二回満月が見られた。三月も満月が一日と三十日に二回見られた。しかし、挟まれた二月は、閏年であれば閏日の二十九日が満月になるが、平年だったので、満月が無い珍しい月となった。だからどうというわけでもないが、なんとなく昨年の一月と三月は得をしたようで、二月は損をしたように感じたのは、新暦と陰暦の狭間をたゆたう俳句の徒の性だろうか。
今年は一月も三月も満月は一回で、二月も満月が戻ってくる。
二月の始めの主な節目はと言えば、三日の「節分」、四日の「立春」、八日の「初午」であり、この中で最も大きな節目になる季題が「節分」である。朔月にあたる。
「節分」とは字義通り季節を分ける日のことだが、東京の昔は「節分」は十二月三十日と、明けて一月の六日と十四日を「節分」として祝ったが、立春の前日のみが「節分」として残ったもので、京都では、元日の初詣は欠かしても節分の厄払だけは欠かさないほどの季の節目になっている。古来よりの神道と中国の陰陽五行説に基づく陰陽道が重なって「節分」が重んじられるようになったのだろう。このため、除夜の「追儺」はじめ、「柊挿す」「豆撒」「厄落」「厄払」「厄塚」など多くの「節分」ゆかりの季題が『虚子編新歳時記』には立てられている。すべて厄落しである。立春前ということで、二月ではなく一月に分類されているのが面白い。昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』然り。
また西鶴『好色一代男』巻三の「一夜の枕物ぐるひ、大はらざこ寝の事」には節分の夜「まことに今宵は大原のざこ寝とて、庄屋の内儀娘、又下女下人にかぎらず老若のわかちもなく、神前の拝殿に所ならひとてみだりがはしくうちふして、一夜は何事をもゆるすとかや。いざ是より」と乱交の様子を書いており、語り草となる「大原雑魚寝」も節分がらみの面白い季題である。
節分の夜と言えば、「こいつあ春から縁起がいいわえ」という河竹黙阿弥の名作歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちざともゑのしらなみ)のお嬢吉三のセリフも名高い。
月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔の心持ちよくうかうかと、
浮かれ烏のただ一羽ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手にいる百両 、
(呼び声)おん厄払ひませう、厄おとし厄おとし
ほんに今夜は節分か、西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし、豆だくさんに一文の銭と違つて金包み、こいつあ春から縁起がいいわえ。
このお嬢吉三のセリフは名調子なので意味も判らず聞き惚れてしまうが、よく味わうと春の季感に満ちた季語の生きた宝庫である。朧月に佃島の白魚漁の始まりと、酔い心地に春寒きの風、乞食が手拭を被り張りぼての籠を担いで年玉の扇子を持って「厄払いましょう」と練り歩けば、厄年に当る家々はこれを呼び、年の数の豆と一銭(あるいは十二銭)を紙やふんどし(厄落しを「ふぐり落し」とも)に包んで捨てて厄を落とす。乞食はそれらを拾って、お嬢吉三のように厄落しのセリフを「アララめでたいなめでたいな、めでたい事で祓うなら、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳、三浦の大助百六つ、いかなる悪魔が来たるともこの厄払がひっとらえ、西の海へさらり」というように唱えて去る、お江戸の習わしを踏まえているのである。ただし、この「節分」は二月ではなく、「月も朧に」なので満月に近い正月十四日の「節分」である。
乞食や厄拾ひ行く手いつぱい 川端茅舎 昭和2年
という茅舎の句は、そういう江戸の習いがまだ残っていた昭和初期の句である。
余談だが、この「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空」というのは、那珂湊では「月夜間(つきよま)」といって漁に出ない期間を言う。漁師の家には「月夜間こよみ」を掛ける。写真の毎月橙色の線が引かれた一週間が月夜間にあたる。月夜間とは、満月の前後、旧暦の十三日から十九日を指す。満月の前後は集魚灯の効果が月光で薄れるので巻網が不漁とされる時期なのだ。辞書には載っていない。暦には旧暦が併記され、月齢も載り、裏には全国の潮汐表が付いている。机上の情報と、板子一枚下は地獄で体を張るたつきとの違いがそこにはある。白魚獲りは江戸の春の風物詩だとしても、朧月とはいえ、篝火の効果が余り期待出来ない夜釣ではある。漁師達は祖父母に食べさせるための魚を、この月夜間だけは、今でも市場に購いに行くのである。
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