西瓜糖カンフーの日々⑶ 小津夜景
こんばんは。
今日は巨大なクッキーを食べました。アイデスに逝ってきた姉弟子が「おみやげだよ。にゃーん」と嬉しそうに呉れた西瓜糖クッキーです。
そのクッキーを見た瞬間、わたしは本当に驚きました。ところが姉弟子はそんなわたしに構わず、手にもっていたもう一枚のクッキーをむしゃむしゃ食べてしまったものだから、わたしは二度驚いてしまいました。
だって西瓜糖クッキーって、正真正銘の骨なんだもん。
わたしは西瓜糖クッキー(という名前のただの骨)をぽりぽり食べながら、しばらく姉弟子と過ごしました。姉弟子の問わず語りによれば、アイデスの住人たちは死者を想うとき、それを直接《思い出す》ことをしません。彼らは、死者をそのまま《思い出す》のではなく、まずそれを《食べ》る。
食べる? 骨を? なんで? この話を聞いた姉弟子が思わずぽかんとしていると、彼らはにこやかにこう語ったそうです「生者と死者とを隔てることになんの意味があるのかわからないから、われわれは、それらの意味を取り去ることにしたんだよ。そして意味を取り去ったその日から、生と死を構造することもまた無くなったんだ」
アイデスの住人たちが、骨を食べるようになった本当の理由はわかりません(姉弟子は、とても過酷な闘争史があったんじゃないかな、と言います)。それでもこの習慣が、ある日彼らがこう考えた時に始まったことだけは、少なくとも確かなようです。問①。人は現実を回想することができるか。答①。できない。現実と人とは、回想によってではなく没頭によってしか、つまり生きることによってしか関係をもちえない。問②。人は死者を思い出すことができるか。答②。できるわけがない。
わたしは黙って姉弟子の話を聴いていました。
できるわけがない。なぜなら死者とはここにある現実であり、またそうである以上《思い出す》対象とならないのだから。われわれの《回想》できるものは《この死》でなく、いつだって《あの生》にすぎないのだから。そう、だからこそ、われわれはアイデスを満たしている《この死》の現実と深く関わるために、とてもおいしい西瓜糖を、おのおのの心に叶う場所で栽培し、それを毎日《食べる》ことにしよう。そして西瓜糖の、そのやさしい香りや味に恍惚と酔いしれつつ《この死の現実に没頭》することで《あの生の回想を実現》しよう。
そこで姉弟子は口を閉じました。そしてアイデスの住人たちが食事している写真を見せてくれました。
わたしは、そのとてつもなく静かな写真を眺めながら、正直こんな風に思いました。
アイデスの住人たちは《この死》の記号である、西瓜糖という名の骨を味わいそこねている。没頭しそこねている。死者を思い出しそこねている。だって彼らは結局、その骨をそのまま排泄するのだから。
けれども彼らの《この死の現実への没頭》が《あの生の回想を実現》するという希望にのみ支えられている限り、彼らはこのような奇妙な食事で、おのれの臓腑をどうしても満たす必要があるのだろう。
彼らの想う《あの生》とは、つまりは実現された汚物に過ぎない(きっと誰の心の中にもいっぱいある、キラキラしたゴミと同じように)。とはいえ彼らは、そんな輝くゴミからこの現実をはぐくもうと試みている。そしてはぐくまれるべきこの現実とは、まぎれもなく触れることのできないものたちへの憧れだった。
触れることのできないものたちへの憧れ。
わたしたちは、いつも何かを《思い出したい》。だからわたしたちは食べ、あるいは眠る。あるいはずっと眠らずに起きている。あるいは夜の散歩に出る。そしてそのたび食べそこね、眠りそこね、起きそこね、歩きそこね、途方に暮れて夜空の星を見上げ、そしてあいかわらずの圧倒的な忘却の中、甘いクッキーで自分を慰めるのだ。
わたしは姉弟子に「クッキーありがとう。おいしかった。また明日ね」と言うと、無闘派修行のため、一人夜の講堂に向かいました。暗い夜道を抜けて。いや違うな。とても甘い、星いっぱいの夜空をくぐって。
返り血咲く講堂の扉にわが触れぬ
赤いメット白いメットと討ちにけり
羽衣を抱き心地のおシャカかな
白骨となりそこねてや夢のハム
花の山死なばおまへも同門か
全身を全霊としてつばくらめ
しら梅に忍者ばかりとなりにけり
もう夢の念力がねえ眠れねえ
ぶつ潰してもぶつ潰しても光
爆音の不眠だ
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