≫福田若之〔ためしがき〕『ザジ』と「第二芸術」
■天気から若之へのメール
発表年(第二芸術、ザジ)を追記しておきました。
第二芸術論は、句を並べて選ばせるところが有名だけど、あれはまあ、今となってはねえ。
私はそこよりも「俳壇」だとかサロン的な人間関係に触れたところが興味深い。
で、ひとつ思うのは、「芸術」とか「文学」とか「インテリ」の価値が、当時と今ではまったく違うということで、そこはバイアスがいると思います。
当時の衝撃は、当時若者だった田沼さんの回顧(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/06/blog-post_8332.html)が、なんかリアル、と思っています。
駄話、ごめん。
で、ついでに。
ウラハイの記事、映画には触れていないけれど、ルイ・マル監督の映画、大好きなんですよね。
原作は読んでない。原作には、映画のラスト、「何をしてたの?」「1日ぶん年をとった」はあるんだろうか?
■若之から天気へのメール
どうもこんにちは。
言葉の意味合いの違い、確かにありますよね。フランスでもクノー以前と以後で〈文学〉の意味合いに違いがあるというようなことが、『零度のエクリチュール』にちらっと書いてあったりするんです。もっとも、ここでいう「クノー」は、時期的に『ザジ』よりもっと前ではあるんですけれども(ちなみに、バルトによる『ザジ』論もちゃんとあって、新訳ではタイトルが『批評をめぐる試み』と訳されている『エッセ・クリティック』に収録されています)。
クノーは、書かれた言説における話し言葉の汚染がそのあらゆる部分で可能なことを明確に示そうとしたのであって、その彼の作品においては、文学言語の社会化がエクリチュールのあらゆる層つまりは書記法や語彙――そして、それらほどには注目を浴びないがより重要なもの――語り口を同時にとらえる。(中略)少なくとも、初めて、文学的なのはエクリチュールではなくなっている。〈文学〉は〈形式〉から追い立てられている。すなわち、それはもはやひとつのカテゴリーでしかない。〈文学〉は皮肉である、言語がここにおいて深みのある経験をかたちづくっているから。あるいはむしろ、〈文学〉は、言語についてのひとつの問題提起へと、あからさまに還元されている。実際、〈文学〉とはもはやそれでしかありえない。〔*〕うーん、言葉の主述関係や修飾関係を厳密に訳そうとするとかえって分かりにくくなっちゃいますね。要約すると、
クノーは、話し言葉を書き言葉にひっきりなしに混ぜこもうとする。すると、表記や言葉や言葉遣いの選択は、さまざまな話し方をする人間たちが暮らす社会のなかでの選択になる。だから、クノーが出てきてはじめて、〈文学〉は書かれるものを規定する唯一無二の〈形式〉としての地位を失って、ひとつのカテゴリーに過ぎないものになる。その結果、もはや、〈文学〉は、皮肉というか、言語についての問題提起のひとつでしかなくなる。こんな具合でしょうか。
今回は、この〈文学〉という概念自体の違いをあえて利用してみました(その違いのせいで節を二つに区切りたくなったのかもしれません)。
「第二芸術」のなかで、いちばん鋭くて、かつ、いまも生きているのは俳壇の内向的なあり方についての議論(この話題について、ペドロさん、U.J.さんからもコメントをいただきました)、というのは同意です。だからこその『ザジ』、みたいなところもあって。
ただ、俳壇のあり方についても、本格的に議論するなら「第二芸術」から秋桜子の俳論へと場を移す必要があると思います。これは今回ぜひ書いておきたかったことの一つです。「第二芸術」が書きものとしてオリジナルなところは、議論の鋭い部分とは別に、まさしく俳句を第二芸術と呼んだことそれ自体ではないでしょうか。 「第二芸術」は、あらゆる場面で優劣の確定を希求するほとんどリビドーのようなものに貫かれていて、それがあの文章をして俳句を第二芸術と呼ばせた、という感じがします。そこで、今回の「『ザジ』と「第二芸術」」では、そのリビドーのようなものが、優劣のものさしを求めて最終的に「文化国家」にもたれかかってしまうという問題を批判的にとりあげたわけです。
『ザジ』については、僕は映画の方を観ていません。あれをどう映像にするんだろうなあと気にはなりつつ。小説もやっぱり同様のやりとりでオチます。
〔*〕«Queneau a voulu précisément montrer que la contamination parlée du discours écrit était possible dans toutes ses parties et, chez lui, la socialisation du langage littéraire saisit à la fois toutes les couches de l'écriture: la graphie, le lexique - et ce qui est plus important quoique moins spectaculaire -, le débit.... Du moins, pour la première fois, ce n'est pas l'écriture qui est littéraire; la Littérature est repoussée de la Forme: elle n'est plus qu'une catégorie; c'est la Littérature qui est ironie, le langage constituant ici l'expérience profonde. Ou plutôt, la Littérature est ramenée ouvertement à une problématique du langage; effectivement elle ne peut plus être que cela».
(Roland Barthes, Le Degré zéro de l'écriture (1953), in Roland Barthes, Œuvres complètes, Paris: Seuil, 2002, t.1, pp.220-221)
3 件のコメント:
安吾の第二芸術論論も面白いですね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42885_27504.html
秋桜子の俳論といえば、中川広さんという方がご自身のホームページで秋桜子を非難してますね。
http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/syuoshoi.html
>秋桜子の言うように、「多くの書を読み、文献を渉猟し、絵画彫刻を見学」しなければ、創作力、想像力を養うことが出来ず、高等な頭脳の働きをなし得ないのか。その機会に恵まれなかった時代の人々は高等な頭脳を有しなかったと言えるのか。
と書いて、さらにページの終わりで
>雪の朝二の字二の字の下駄の跡
この句は捨女が六歳の時に詠んでいる。
秋桜子のいう高等な頭脳の働きにより俳句がつくられるものならば、捨女のこの句をどう説明するのか。
と。俳壇うんぬんとは直接関係ない話やもしれませぬが。
引用部の訳に若干の修正を加えました。
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