2015年3月17日火曜日

〔ためしがき〕 マディ・ウォーターズが歌う原爆 福田若之

〔ためしがき〕
マディ・ウォーターズが歌う原爆

福田若之


マディ・ウォーターズといえば、シカゴ・ブルースの歴史で最も重要な巨人の一人に違いないけれど、彼の歌った"Atomic Bomb Blues"――「原子爆弾のブルース」――については、あまり知られていないようだ。この曲は、Muddy Waters: Chicago Blues Legendという8枚組のCDセットの二枚目に収録されている。

この曲、歌とピアノがなかなか聴かせてくれるのだけど、それにもまして、詞が衝撃的だった。
It was early one morning, when all the good work was done
It was early one morning, when all the good work was done
And that big bird was loaded, with that awful atomic bomb

Wrote my baby, I was behind the risin' sun
Wrote my baby, I was behind the risin' sun
I told her, don't be uneasy, because I'm behind the atomic bomb

Nation after nation, was near and far away
Nation after nation, was near and far away
Well, they soon got the news, and there where they would stay

Over in east Japan, you know, they let down and cried
Over in east Japan, you know, they let down and cried
And poor Tojo, had to find a place to hide
和訳するとこんな具合:
それはある朝早くのことだった、あらゆる努力がなされていた
それはある朝早くのことだった、あらゆる努力がなされていた
そして、あの大きな鳥は原子爆弾を載せていたんだ

恋人に手紙を書いたんだ、俺は昇る太陽について行くんだって
恋人に手紙を書いたんだ、俺は昇る太陽について行くんだって
俺は彼女に、心配はいらないと伝えた、だって俺は原子爆弾について行くんだからってさ

たくさんの人たちが、近くにも遠くにもいた
たくさんの人たちが、近くにも遠くにもいた
そんでもって、彼らはすぐに知らせを受けたんだ、そこは自分たちがいたかもしれなかった場所だった
日本の東側ぜんぶで、知っての通り、彼らは落ち込んで泣いた
日本の東側ぜんぶで、知っての通り、彼らは落ち込んで泣いた
そんで、かわいそうな東條は、隠れるための場所を探さなきゃならなかったのさ
この歌の前半で、原子爆弾と戦闘機は太陽と鳥になる。太陽と鳥は古代の神話の世界的なモチーフだ(たとえば、エジプト、ギリシャ、アンデス、中国、そして日本)。近代の戦争は、この隠喩によってたちまち神話へと近づく。それは、ある時代に特別なものとしての原子爆弾の投下を、不滅のイメージで塗り替えることにほかならない(原子爆弾の、少なくとも「投下」は完全に過去のものだろう。もし今後、万が一、核兵器が使われてしまうことがあったとしても、そのときは長距離ミサイルか何かに搭載されるに違いない)。

この歌を聴いていると、数千年後の未来人たちは次のように伝え聞くことになるのかもしれないと思わせる:二つ目の千年紀の終わり近くに太陽を鷲掴みにした鳥に乗って英雄ないしは悪魔がやってきて人々を塩の柱に変えた、とかなんとか。しかしながら、「原子爆弾のブルース」はそうした神話の寸前で踏みとどまっている。この歌は、男を(戦勝国の立場から)英雄と称えることもなければ、(敗戦国の立場から)悪魔と罵ることもない。それは、この歌が物語をこの男自身の視点から語るからだ。「俺」と言うことによって、それについてのあらゆる価値判断が免除されている。それをするのは聴く側ということになる。

「俺」についてはそうであるとして、では、他の人物についてはどうか。たしかに彼は東條英機のことを「かわいそうpoor」だという。とはいえ、これも、故人について語るときの極めて修辞的な形容にとどまる。「かわいそう」は、ただこの歌の現在における彼の死を伝えているに過ぎない。

かくして、「原子爆弾のブルース」は神話的な色彩を帯びながらも、出来事をただ語るだけにとどめおく。だから、この歌は神話的でありながら決して神話そのものではなく、あくまでも叙事詩なのだといえる。

ところで、この歌は、価値について語らない代わりに、別のことにこだわっている。それが、場所だ。「俺」は、原子爆弾のうしろにbehindいる。人々は近くや遠くにいる。彼らは日本の東側でそこは自分たちがいたかもしれなかった場所だったことを知って悲しみに暮れる。そして、東條は隠れるための場所を探す。

僕らがいるということは、どこかにいるということだ。この歌はそれを前提にしている。そのことは、この歌の主題である原子爆弾が、僕らの生きる場所それ自体をまるごと消失させてしまう兵器だったことと無関係ではないだろう。

プアであるとは、すなわち、持たざる者であるということだ。死者であることがすなわちプアでもあるのだとしたら、それは、彼が生きるための場所をもはや持たないからに違いない。

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