2015年6月17日水曜日

●水曜日の一句〔高原耕治〕関悦史



関悦史








龜裂づくしの

玉の上下に玉
玉の左右に玉
  高原耕治


一見、幾何学的な視覚効果に特化したオプ・アートのような句だが、こうしたモチーフであっても高原耕治句に特徴的な実存性や暗喩性が一句にしみとおっている。

「玉に瑕」と言ってしまえばただの成語に過ぎない。しかしそれが「龜裂づくし」と打ち出されると、その満身創痍ぶりの過剰さはもののたとえではなくなり、「玉」に物質的な実在感が増す。

ただし暗喩性があるという以上、そうしてできた一句が、全体として他の何かを指し示している気配も当然濃厚なのだが、その暗喩も物質的な実在感が増せば増すほど強化されるという態のものである。逆に言えば作者が訴えたい何かを提示するためには、物質的な実在感は必須であり、その物質感は、俳句である以上、言葉によってしか組織されない。

物質的な実在感とは、「意味」の通りの良さからすればノイズや抵抗物に当たるが、そのいわば邪魔者がなければ一句はただの言説や自意識に過ぎないものになってしまう。ましてこの句に登場するのは「玉」という求心性の強い形態である。容易に自意識の符号に堕してしまうこの形態から、一句の時空を拡散させなければならない。

「玉の上下に玉/玉の左右に玉」という、内容的にも措辞的にも整然たる反復による拡散はそこから要請される。

整然と並んだ玉は、自意識であることを脱し、ひとつの世界模型のようなものになるのである。しかし「龜裂づくし」の深手を負いながらなお整然と世界を構築する玉たちは、模型ではない。現実の世界に或る変換手続きを加えれば得られる潜在的な構造図といった方が近いだろう。

ところでこの「龜裂づくし」はどこまでかかるのか。最初に見出された中央のただ一個の玉だけなのか、それとも整列する玉たち全てのことなのか。

前者と取るとせっかく拡散展開した一句がまた自意識や不遇感に回収されてしまいかねないので、全てではない場合でも、少なくとも複数と取りたいところだが、この修飾範囲の曖昧さも、プラスに取れば、眼前の全ての物件に同時に焦点が合うことはないヒトの生理に根差しつつ、上下へ左右へと驚異を孕みつつ引き回され、押し拡げられてゆく知覚をリアライズしているようで、その朦朧たるところがかえって生々しい。

そしてそこから振り返ってみれば、たしかに「龜裂づくしの」と打ち出した後に挿入された一行空白は、その驚異に引きずり込まれる瞬間の飛躍と眩暈に見合っているのである。

句集『四獸門』(2015.5 書肆未定)所収。

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