自己言及
福田若之
たとえば、《風邪の句が多くて選者にもうつる》(能村登四郎)が、これ自体、風邪の句であるということ。そして、おそらくはこう書いた登四郎自身がこの「選者」であり、まさしくこの句を書くことによって風邪の句が選者にうつったのだということ。こうした構造が、僕はたまらなく好きだ。
ひとはしばしばこうした構造に理屈っぽさや幼稚さ、閉鎖的な志向などを見て取る。けれど、僕はこの構造にある種の情念を見て取る。それは少しばかり完璧主義的な建築家の情念だ。すなわち、塔をそれ自身の過不足ない質量によって独りでに立たせたいという望み。もちろん、この建築家はそれが倒錯的で非現実的であることを自覚している。
僕は自己言及的な俳句を書きたいと思うし、自己言及的な批評を書きたいと思う。その俳句自身について述べる俳句、ある俳句について述べながらその批評自身を最もよく明らかにする批評。後者は、批評として、ある程度まで対象の姿に擬態しようとするだろう。それによって、ある句について語ることが、自らについて語ることに通じるのだ。樹に棲むカメレオンは、そこに棲みたいという情念によって自らの色を変える。僕が書きたいと望む批評は、棲む批評だ。
2016/6/4
1 件のコメント:
句の引用に誤りがありますので、追記。
正しくは、《風邪の句の多くて選者にもうつる》(能村登四郎)です。『天上華』(角川書店、1984年)所収。
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