2017年7月25日火曜日

〔ためしがき〕 季と季題についての試論  福田若之

〔ためしがき〕
季と季題についての試論

福田若之


季語といい、季題という。かつて、僕は季語という語を季題という語よりも好んだ。それは、俳句は原則として言語をその素材とすると信じていたかつての僕の、じつに形式主義的な考えにかかわってのことだった。当時の僕にとって、季語は俳句の素材の一部であり、したがって、それはたしかに語であると考えられたのだ。

しかしながら、語というと、それは通常、意味するものとして理解される。たとえば、団扇が夏を意味する、といった具合に。 しかしながら、このことが、いまや僕には疑わしく思われてならない。それは、季ということを考えるに至ってのことだった。

夏はくりかえされるが、この夏はくりかえされない。季とは体感される差異と反復の真理そのものである。季は、自ら差延することを通じて、ほかのあらゆるものを差延のもとで思考するようにうながす。たとえば、《夏はあるかつてあつたといふごとく》(小津夜景)の「ごとく」に着目することで、こうしたことは理解されるだろう。そして、このように考えるとき、たとえば、ある句において団扇という言葉が用いられるとき、それが季とかかわりを持つのは、概念としての夏一般を意味することによってというよりは、むしろ、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによってであるように思われる。

すると、季語という言い方がはなはだ不充分であるように思われてくる。季語というと、あたかも、季を意味する言葉であるかのようだが、実際には、季語はそうした言葉として働いているわけではないのだ。団扇という言葉は、その意味するところとは別に、そのつど、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによって、季とかかわりをもつのである。

僕たちは、季題という語における題という字の意味を、主題すなわちテーマという意味で理解することに慣らされてきたように思う。それは句の主題としての「季のもの」(虛子)だというわけだ。 しかし、そうではなく、この題という字を、表題すなわちタイトルという意味で捉えかえすことはできないだろうか。表題とは、一般に、何か固有のものを指し示すために掲げられるものである。僕は、この意味で、季題という語を用いたい。季題とは、くりかえされることのないある固有の時間を指し示そうとする題としての言葉なのである。時間を指し示そうとするという点で、それは時計に似ている。

しかし、固有の夏を指し示そうとすることが、すなわち、季を指し示すことであるのかといえば、そうではない。固有の夏を指し示そうとすることは、あくまでも、季とかかわりをもつことにとどまる。季は直接に指し示すことができるものではなく、むしろ、僕たちの指し示そうとする行為をつうじて、その前提として遡及的に把握されるのである。

季題と季のこうしたかかわりは、もしかすると、法と正義のかかわりに似ているところがあるかもしれない。法は、正義の存在を前提としつつ、自らを正義にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく正義をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して正義そのものには到達しえない。季題は、季の存在を前提としつつ、自らを季にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく季をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して季そのものには到達しえないのである。だが、季の存在は、正義の存在と同様に、ただ信じられるものであるのみにとどまらず、確かなものとして感じとられる性質のものである。この意味において、おそらく、季とは不可能なものの経験なのである。

無季俳句と季のかかわりについても、ここから理解される。正義へ向けた歩みが必ずしも法的なものでないのと同じように、季へ向けた歩みはかならずしも季題によってのみなされるわけではない。無季俳句もまた、季とのかかわりを持ちうるのである(ただし、ここで季を正義に喩えることは、季こそが正義であるとか、ましてや、それ以外は俳句の正義に反するとかいうことを示唆するものではいささかもないという点には注意してほしい。無季俳句においても季とのかかわりこそが唯一重要なことがらであるというような考えは、おそらく妥当ではない。とはいえ、書くことは体感される差異と反復の真理なしにはありえないだろう。その限りで、ひとがそれを重要と考えるかどうかにかかわらず、書かれる俳句は季とかかわりをもたざるをえないように思われる)。

ところで、この法と正義のメタファーは、もうひとつ重要なことを示唆している。すなわち、歳時記ないしは季寄せと呼ばれるものは、しばしば、俳句を読み書きするうえでの法にあたるものと考えられがちであるが、実際にはそうではなく、むしろ、それぞれの法ごとに項目立てされた判例集にあたるものなのだ。歳時記における季題の解説と例句は、季題の解釈と運用の実例にほかならない。法そのものと個別の判例とを取り違えることは、法を運用するうえできわめて危険なことであるはずだ。歳時記によって知ることができるのは、あくまでも、季題の解釈と運用の歴史にすぎない。

2017/7/21

1 件のコメント:

上坂 さんのコメント...

「書かれた言葉は、語られた言葉の影である」byプラトン
とあるように、これは言葉全般について言えることですね。