2017年7月18日火曜日

〔ためしがき〕 生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」についてのノート 福田若之

〔ためしがき〕
生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」についてのノート

福田若之


ウェブサイト「poecri」で、生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」(以下、「ver.0.0.1」と略記する)が配布されている。

まず確認しておきたいのだが、配布スペースの説明に「正式版」が後日発表されることが示唆されているとしても、この文章は無限に書き改められることを前提としているように思われる。 「ver.0.0.1」の、このヴァージョンの記載は、まさしくそうした前提をあからさまにするものとして読まれる(仮にver.1.0.0が「正式版」と呼ばれることになるとしても、その後、ver.1.0.1以降が書かれる可能性はつねに残るだろう)。そうでなければ、なぜ、「ver.0.0.1」などというあからさまに未完成の段階でこれを公開しなければならないことがあろう。実際、3章はまだ各節の見出ししか書かれていない。それさえ、あるとき書き換えられてしまうかもしれない。4章以降に至っては、その計画があるのかどうかさえわからない。この状態で、いったい何を読めばよいというのか。

問いかけてはみたものの、その答えははっきりしている。「ver.0.0.1」を読めばよいのだ。だから、読もう。「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」においては、次の三原理によって、俳句が定義される。
俳句は言語によって表現される(言語原理)
俳句は過去のある俳句に対する継承性を有する(継承原理)
俳句はある表現対象に対して最適な形で構成される(最小作用原理)
ひとまず、俳句を定義することそれ自体の妥当性は抜きにしておこう。書き手は、これ以降、あくまでもこの定義において俳句を語るだろうし、その限りにおいて、たとえば、表題の「例句」なり「一句」なりという語は、おそらくそうした俳句の定義の範囲内での「例句」か「一句」にすぎないことになるだろう。その議論にひとまずは乗ってみよう。「ver.0.0.1」を信じてみよう。すると、ただちにいくつかの疑問が生じるのだが、ここではとりわけ「ver.0.0.1」に次のとおり書かれている問いに着目したい。
継承原理は多くの言語表現の中から俳句を峻別する際に非常に有効な原理であるが、ある本質的な矛盾を内包する。すなわち「帰納的に考えた時に、最初の俳句は如何なる定義でどのように生まれたのか」という疑問(矛盾)である。
この問いに対する「ver.0.0.1」の答えは、次のとおりである。
結論から言えば俳句の場合は幸運にもこの矛盾を回避できる。俳句は初期値が比較的明らかな文芸であり、正岡子規が俳諧から発句を独立させて俳句と名付けたという時点を持って俳句の初期値を与えることは可能である。もっと言えば、俳句は自然発生的に形成された文芸ではなく、ある時点に意志を持って作られた文芸であるという点が特徴的な部分であり、本論の基盤をなしている事実認識である。
到底、にわかに納得できるものではない。子規が俳諧から発句を独立させた時点をもって俳句の初期値とすることの歴史的な妥当性を問うまでもない。「最初の俳句」が子規その人のものであったのかどうかは、ここでは本質的な問題ではない。重要なのは、ただ一点である。すなわち、仮に「最初の俳句」が「意志を持って作られた」ものであるとして、そのほとんど神的な創造者を「正岡子規」と呼ぶことにした場合、その「正岡子規」が最初に俳句と名付けたその俳句は、本論における俳句の定義に合致するものなのか、という点だ。つまり、「正岡子規」が俳句と呼んだものに対する継承性を有することは、ほんとうに、本論における俳句という語の定義にもとづいて、「過去のある俳句に対する継承性を有する」ことになるのか、という点である。

僕の考えでは、そうはならない。なぜなら、この「最初の俳句」なるものがもしあるとするならば、それが実際に子規によるものであったにせよそうではなかったにせよ、それは明らかに継承原理を満たしていないからである。「最初の俳句」は最初の俳句ではないということになる。これでは、矛盾がまったく解消されていないのだ。

もっとも、このことについては、解決策がいくらかありうる。以下に、その四つを示す。

第一の解決策は、継承原理を撤回することである。つまり、背理法的に、継承原理の矛盾をもって、この原理それ自体が誤りであるというように思考を修正して展開していく向きがある(思うに、もっともつまらない解決策だ)。

第二の解決策は、「最初の俳句」なるものの仮定を撤回して、俳句の起源を問うことをあきらめることである。俳句にははじまりなどない、それはつねにすでにはじまっていたのだ、と考えるということだ。この場合、究極的には、宇宙の誕生自体が俳句でなければならないことになるだろう。つまり、宇宙の誕生は何らかの言語による表現であって(「ver.0.0.1」によれば、「言語とはある体系的な伝達媒体の中で、再現性を持つものを指す」)、過去の数かぎりない他の宇宙の誕生に対する継承性を持ち、しかも、最少の手数で引き起こされるのだと、信じることが必要になるだろう(ひとつの信仰として、悪くない)。

第三の解決策は、やはり「最初の俳句」なるものの仮定を撤回して、俳句なるものはつねにすでに来たるべきものにとどまる、と考えることである。つまり、このような定義における俳句はいままで一度も書かれたことなどなく、したがって、継承原理を満たす可能性が閉ざされている以上、今後も俳句が現に書かれることはないだろう、と考えるということだ。これは、たとえば、高柳重信の考えとも一脈通じるところがあるように思う。1976年2月の『国文学』を初出とする「俳句形式における前衛と正統」において、重信は、「たしかに子規の予言によれば、新しい俳句形式の運命は明治を過ぎること幾許もなく尽きるであろうとされていたが、いまや俳句は、その長からぬ寿命が尽きかかっているのかもしれない」とした直後、段落を変えて、次のとおり続けている。
だが、そうだとすれば、この作品の存在に先んじて命名されたに等しい俳句形式は、いったい俳句そのものに本当にめぐりあったことがあるのであろうか。もしかすると、遂に一句の俳句作品に出会うこともなく、 その終りを迎えてしまったのではないかと、なぜか、ふと思われてくるのである。その場合、俳句形式の運命は、まず発句もどきに始まり、多くの俳句もどきを残しながら終ったことになるであろう。それは如何にも空しい軌跡のように思われるが、もともと俳句形式は、そういう絶望的な不毛さを運命づけられていたと考えるならば、むしろ当然の帰結であったろう。
(高柳重信「俳句形式における前衛と正統」、太字は原文では傍点)
重信のこうした直観的な記述を、「ver.0.0.1」の記述に照らし合わせながら、書かれるテクストが「継承原理」を満たすことが原理上ありえないがゆえに、ひとは俳句そのものには決してめぐりあえないのだという論理に読み変えていくことは可能かもしれない。重信は、前述の文章のなかで、「ver.0.0.1」と同じく子規を新しい詩型としての俳句の提唱者としたうえで、「だから、厳密に言えば、このとき、いまだ俳句は一句も存在せず、いわば既知なる発句に取り囲まれた状況の中で、俳句にかかわる諸問題が論じられつつあったのである」と述べていた。つまり、「ver.0.0.1」の記述をこの第三の解決策を講じて書き換えた場合、それは重信の提示した俳句史観とすくなくとも見かけ上は驚くほど合致するものとなることが予想されるのである。

第四の解決策は(おそらくこれが「ver.0.0.1」が暗黙に前提としていることなのだろうが)、俳句の定義自体にあらかじめ他なるものの可能性へと開かれたかけがえのなさを導入することである。つまり、この俳句の定義はそもそも一般的に適用できるものではないということを認めることである。それによって、継承原理を撤回することも、「最初の俳句」なるものの仮定を撤回することもなしに、なおかつ子規のいう俳句と「ver.0.0.1」のいう俳句との齟齬を是認しながら、俳句なるものの実在を認めることができるようになる。ただし、この場合、俳句の定義は他者にとってはまったく別のものである可能性を、受け入れなければならない。それは、たとえば、明日には俳句の定義がまったくの別物になっているかもしれないという可能性を、つねに認めつづけることにも通じている(もしかすると、それゆえの「ver.0.0.1」なのだろうか。先に書いておいたとおり、「この文章は無限に書き改められることを前提としているように思われる」)。そして、この場合には、一見科学的な客観性を担保するかのようなエクリチュールさえもが、一般的なものとしての俳句の定義(そんなものがもしありうるとすればだが)を確認するための記述としてではなく、俳句が「私にとって」いかなる価値をもっているのかを示すための(あるいは、結果としてそれを示してしまわずにはいない)パフォーマンスとして理解されることになるだろう。つまり、生駒大祐にとっての俳句の価値は、すくなくとも彼自身にとっては、表面上は「私」を排した科学的なエクリチュールによって表現されなければならない何かなのだ、と。

僕が思いつかないだけで、ほかにもこの矛盾を解消する方法があるのかもしれないが、いずれにせよ、僕にとっては、第四の読みがもっともこのテクストを豊かなものにするように感じられる。この後、生駒大祐の思考はどのように展開していくのだろう。僕の関心は、彼の提示する俳句の定義それ自体よりも、むしろ彼の思考の展開へと向けられている。

2017/7/16

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