〔ためしがき〕
波の言葉11
福田若之
歴史を紐解いてみれば、自作についてほとんど何も語らずに済ませた書き手にも、自作について多くを語った書き手にも、優れた書き手はたくさんいる。たんに、多くのひとがそのどちらか一方にしか共鳴しえないというだけだ。『新生』におけるダンテの饒舌ぶりを思えば、俳句の書き手たちはまだあまりにも自作について語ることを知らない。
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生きることの目的などと、ひとはたやすく言ってみせる。けれど、生きることに目的があってたまるか。生きることをその目的から考えることは、その目的の達成された具合に応じて生の価値を測ろうとすることにそのまま通じている。それは生を優劣で考えることにほかならない。生きることに目的を与えようとするあの道徳こそが、生についてのおよそ堪えがたい考えの温床となる。生きることに価値などない。どう生きようが価値だけはありえない。この価値のなさにおいてこそ、生は絶対的に肯定されるはずだ。僕は、書くことをこの次元において考える生きものでありたい。これは目的でも価値でもないが、とにかくそのような価値のなさを、思う存分に生きてみたいと思う。
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書かなければ伝わらないかもしれないから、書こう。僕が裏庭で限界だったのは、たしか十歳か十一歳ごろのことだったと思うのだが、いずれにせよ大きいほうだ。尻を拭いたポケットティッシュと一緒に、園芸用のスコップで埋めた。噛まれ、こなされ、数種類の消化液と混ざり合った、じつに健康的な体温を感じさせる、たぶん給食の献立か何かだったのだろう。しばらく前、いまあそこに住んでいるひとの家を見に行ったときには、かつて裏庭だった場所はコンクリートで塗り固められてしまっていたけれど、あの窒息した土のなかには、おそらく、そのあとかたが何らかのかたちでいまだに残っているはずだ。おそらくは、僕が飼い殺した昆虫たちの死骸やなにやらとともに、土のなかの微生物たちによって、気の遠くなるほど分解されて。あの裏庭では、毎年、時期になると、決まっておいしい茗荷が採れたものだったのだけれど。
2017/10/11
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