2018年1月23日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド4 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド4

福田若之・編


ふだん認められているのとは反対に、言語は交流ではなくその否定、電話(あるいはラジオ)におけるように、少なくともその相対的な否定である。
(ジョルジュ・バタイユ『有罪者――無神学大全』、江澤健一郎訳、河出書房新社、2017年、126頁)



 私の得意は簿記よりも電話であつた。
 叔父に電話をかけて来るお客の声を、モシ/\のモの字一字で聞き分けたり、受話機の外し工合で男か女かを察したり、両方から一時に混線して来た用向きを、別々に聞き分けて飲み込んだりする位の事は、お茶の子サイ/\であつた。世間の人間はみんな嘘を吐く中に、電話だけは決して嘘を伝へない。自分の持つてゐる電気の作用をどこまでも、正直に霊妙にあらはして行くもの……と云ふやうな、一種の生意気な哲学めいた懐かしみさへおぼえた。殊に電話は、あらゆる明敏な感覚を持つ名探偵のやうに、時々思いもかけぬ報道をして呉れるので面白くてしやうが無かつた。それは誰に話しても本当にして呉れまいと思はれる電話の魔力であつた。
 受話機を耳に当てる瞬間に私の聴覚は、何里、若しくは何百里の針金を伝つて、直接に先方の電話機の在る処まで延びて行くのであつた。其の途中からいろんな雑音が這入つて来ると、此のジイ/\といふ音は此方のF交換局の市外線の故障だ……あのガー/\と云ふ響きは、大阪の共電式の電話機と、中継台との間に起つてゐるのだ……といふやうなことが、経験を積むにつれて、手に取るやうに解つて来た。其の都度に其処の交換局の監督や、主事を呼び出して注意をしたり、手厳しく遣つ付けたりするのが愉快で/\たまらなかった。又それにつれて、各地の交換手の癖や訛なぞは勿論のこと其の局の交換手に対する訓練方針の欠点まで呑み込むと同時に、電線に感ずる各地の天候、アースの出工合、空中電気の有無まで通話の最中に感じられるやうになつた。電話口に向つた時の頬や、唇や、鼻の頭、睫なぞの、電流に対する微妙な感じによつて、雨や風を半日ぐらゐ前に予知する事も珍らしくなかつた。
(夢野久作『鉄鎚』、『定本夢野久作全集』、第1巻、国書刊行会、2016年、348頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略し、くの字点は便宜上「/\」で代用した)


〈電話網〉の秘密の例を取りあげることにしよう。使用されていない電話番号を呼び出して、自動応答メッセージにつながるとき(「この番号は使用されておりません……」)、たくさんの声がひしめきあって聞えてくることがある。それらの声は、自動音声の内部で、たがいに呼びかけ答えあい交錯しては消えゆき、他の声にかぶさり、また他の声がそれにかぶさる。ここにはきわめて短いメッセージがあり、速くて単調なコードにしたがう言表がある。この電話網には〈虎〉が、いやオイディプスさえもが存在している。少年たちが少女たちを呼びだし、また少年たちが少年たちを呼びだす。ここには、人工的な倒錯的社会形態そのもの、あるいは〈未知の人びと〉の社会が、容易に認められる。つまり再領土化のプロセスが、機械によって保証された脱領土化運動の上に連結されている(アマチュア無線の私的グループは、同じ倒錯的構造を示している)。周縁や干渉の現象において、誰かが機械の使用から二次的な恩恵を受けることに対して、公的機関は何ら不都合を認めていないことはたしかである。しかし、同時にそこには、単なる倒錯的主観性以上の、まさに集団的な何ものかが存在している。普通の電話は、コミュニケーション機械であるが、ただ声を投射し遠くに運ぶ役に立つかぎり、それは道具として機能しているだけである。声それ自体は、機械の一部ではないのだ。ところが声が機械と一体になり、機械の部品となり、自動応答によって偶然的な仕方で分配され振り分けられるなら、コミュニケーションはより高度の段階に達する。最も起こりそうにないことが、相互に打ち消される声の集合のエントロピーを基盤として構成されることになる。こうした観点から見るなら、単に技術的社会的機械の倒錯的使用や適用が存在するばかりではなくて、さらに技術的社会的機械の只中に真の客観的な欲望機械が重なり、あるいは欲望機械が構成されることになるのだ。
(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプスーー資本主義と分裂症』、下巻、宇野邦一訳、河出書房新社、2006年、316-317頁)



最近の子どもたちの多くが電話魔だというのも面白い。子どもたちの表現力や対話能力の貧困を嘆いていたおとなたちが、ここでは子どもたちのとめどもない長電話にいらだちを隠そうともしない。けれども、今夜もまた何万、何十万の少年たち、少女たちがおたがいにコールしあっているというのは、考えてみれば実にポップな光景ではないだろうか。もちろん、現在のエレクトリック・メディアはもっともっと高度な水準に達している。
(浅田彰「スキゾ・カルチャーの到来」、浅田彰『逃走論』、筑摩書房、1986年、41頁)

2017/12/26

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