2018年6月14日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








御田植や神と君との道の者 西鶴
 
『点滴集』(延宝8年・1680)

掲句版行の4年後、貞享元年(1684)6月5日~6日、住吉神社神前にて西鶴が二万三千五百句の独吟興行をしたのは有名です。その住吉は和歌神というだけでなく、五穀豊穣を祈る「農耕の神」としても有名でした。稲作の始まりとともに農耕神を祭る御田植神事は現在も続いていますが、西鶴の時代、泉州堺(乳守・高洲)の遊女が早乙女となる風習がありました。元来「早乙女」とは、たんなる田植え女の呼び名ではなく、田んぼの神様に奉仕する特定の女性をさしたのです。

さて掲句、「神と君との道」とは謡曲『采女』をふまえ、「住吉の神も国を治める君も栄えあれ」と祝っています。そのめでたい「神と君との道」から尻取りのように「道の者」が導かれる。「道の者」とは遊女の古い呼び名で、ここでは早乙女をつとめる乳守や高洲の女郎をさしています。だから一句は、〈御田植では、「住吉大神と御君の栄えあれ」と遊女が早乙女の役を勤めるよ〉といった感じでしょうか。


「道の者」については、思想史家・沖浦和光氏の著述が参考になります。『「悪所」の民俗誌』(文春新書、2006年)によれば、平安期の遊女は、交通の要衝である宿場や港町にたむろしていたそうです。なかでも淀川沿いの江口や神崎の遊女たちは都でも評判となり、朝廷に仕える貴人高官もしばしばその地を訪れたというだけではありません。彼女たちを宮中によんで得意の芸を奉仕させました。白ずくめの男装をした白拍子などはその代表ですが、芸も達者で容色のすぐれた彼女たちは、神々に祈念する巫女の系譜につらなり、俗人にはない特異な呪力を秘めた女性とみなされていました。後白河院に愛された丹波局、後鳥羽院の寵姫だった伊賀局は、いずれも江口の遊女の出身であったといいます。

いっぽう謡曲『采女』は、さらにさかのぼって奈良時代に君の寵愛をうけた采女(後宮の女官)の伝説をベースにつくられています。前述のとおり西鶴は、「神と君との」という詞章を『采女』から引用し、さらに「の者」という遊女の古名を掛けあわせました。早乙女→采女→道の者(白拍子)という連想経路がみてとれます。沖浦氏によれば、かつて白拍子には、住吉社・広田社・吉田社などに仕え、巫女舞を演じていたものが多くいたそうです。いまでも住吉では、正月や四月の神事として「白拍子舞」が奉納されています。こうした歴史的背景をもって西鶴は句を構想したのでしょう。

ほかにも西鶴は、〈恋人の乳守出来ぬ御ン田植〉と、愛しの乳守女郎による田植ショーを詠んでいますが、独吟興行のときは自分が主人公――西鶴がやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ! とギャラリーは大いに盛り上がったことでショー。

矢数俳諧の最終ステージとして住吉が選ばれたのも納得、納得。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

『釆女』よりも『高砂』のほうが直接的な引用かと感じました。
『高砂』の後シテは住吉明神そのものですし、

「神と君との道すぐに 都の春に行くべくは」

の詞章が登場する『高砂』キリは、江戸時代なら庶民の結婚式でも普通に謡われる謡でしたから。



青島玄武 さんのコメント...

これ、『采女』でなくて、普通に『高砂』じゃないんですか?

能『高砂』の後シテはそのまま住吉明神ですし、キリの謡の

「神と君との道すぐに 都の春に行くべくは」

なんて、江戸時代の結婚式では普通に謡われていた謡ですし。