2018年6月19日火曜日

〔ためしがき〕 爪 福田若之

〔ためしがき〕

福田若之

まずは、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』。次の引用は、主人公であるスティーブン・ディーダラスの発言の途中からである。
藝術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる。劇的形式における審美的映像というのは、人間の想像力のなかで洗練され、人間の想像力からふたたび投影された生命なんだ。美の神秘というのは、宇宙創造のそれみたいにして成就される。藝術家は、宇宙創造の神と同じように、自分の細工物の内部か、後ろか、彼方か、それとも上にいて、姿は見えないし、洗練の極、存在をなくしているし、無関心になっているし、まあ、爪でも切っているんだな。
 ――爪も洗練させて、存在しなくしようってわけか、とリンチが言った。
(ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』、丸谷才一訳、集英社、2014年、400-401頁)
したがって、ここでスティーブンの思い描く究極の「藝術家」は、言ってみれば〈爪を切るひと〉だ。〈爪を切るひと〉は、存在をなくした、洗練の極たる没個性的なものとして語られている。
 
ところで、哲学者のジル・ドゥルーズは〈爪を切らないひと〉だった。ドゥルーズは、「口さがない批評家への手紙」のなかで、自分の爪が伸び放題になっていることについてのミシェル・クレソールの解釈をとりあげながら、この批評家に宛てて次のとおり述べている。
きみは手紙の最後のところで、私が着ている労働者の上着は(ちがうよ、あれは農夫の上着なんだから)、マリリン・モンローのプリーツ・ブラウスと同じだし、私の爪はグレタ・ガルボのサングラスと同じ意味を持つと書いている。そして皮肉と敵意に満ちた助言をならべたてている。きみが爪のことをしつこく蒸し返すから、ここでちょっと説明しておくとしようか。たとえば、すぐに思いつく解釈として、こんなものがあるだろう。私は母親に爪を切ってもらっていた、したがってこれはオイディプスと去勢に結びつく(グロテスクではあるけれども、これだって精神分析的解釈にはちがいない)。また、こんな指摘をすることもできるだろう。つまり私の指先を見ると、ふつうなら保護膜になるはずの指紋がない、だから指先が物にふれたとき、それも特に織物にさわったとき、私は神経の痛みで苦しむ、だから爪を伸ばして保護しなければならないのだ、とね(これは奇形学と自然淘汰説による解釈だ)。あるいはまた、ことの真相を語りたいなら、こんなふうに説明してくれてもかまわない。私が夢見ているのは不可視になることではなく、知覚されないようになることだ。そして私は爪をポケットに隠すことで夢の埋め合わせをしているのだ。だからまじまじと爪を見つめる人間ほど私にとって不愉快なものはない、とね(これは社会心理学的解釈だ)。さらにこんな説明も可能だろう。「爪をかじっちゃあ駄目だ。それはきみの爪なんだからね。爪の味が気に入っているのなら、他人の爪をかじればいい。それがきみの望みであり、きみにそれができればの話だけどね。」(ダリアン流の政治的解釈)。ところが、きみはいちばん野暮な解釈を選んでしまう。あいつは目立ちたいんだ、グレタ・ガルボの真似をしようというんだ――これがきみの主張だからね。でも、不思議なことに私の友人で爪のことを気にとめた者はひとりもいない。爪のことはごく当たり前だし、種子を運んでくるだけでべつに誰の話題にのぼるわけでもない風が、ひょんなことからそこに爪を残したようなものだ、誰もがそう思っているんだよ。
(ジル・ドゥルーズ「口さがない批評家への手紙」、ジル・ドゥルーズ『記号と事件――1972-1990年の対話』、宮林寛訳、河出書房新社、2007年、15-16頁)
したがって、少なくともドゥルーズ自身にとって、爪を切らないことはマリリン・モンローやグレタ・ガルボのようなスターになることとは何の関わりもない。それは、どちらかといえば、むしろ「知覚されないようになること」に関わるはずのこと――すくなくとも、あえて解釈するならばそう捉えたほうがずっとよいはずのこと――だとされている。

同じ手紙のなかで、ドゥルーズはもう一度「爪」に言及している。次の一節だ。
ところが、みずからの名において語るというのは、とても不思議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思い込んだところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修練を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する強度群に向けて自分をひらいたときにかぎられるからだ。そうした強度の多様体を瞬間的に把握したところにあらわれる名前は、哲学史がおこなう脱人格化の対極にある。それは愛による脱人格化であって、服従による脱人格化ではない。私たちは自分の知らないことの基底について語り、わが身の後進性について語るようになる。そのとき、私たちは、解き放たれた特異性の集合になりおおせている。姓、名、爪、物、動物、ささやかな〈事件〉など、さまざまな特異性の集合にね。つまりスターとは正反対のものになるということだ。
(同前、18-19頁)
ドゥルーズにとって、爪とはひとつの特異性である。ただし、ドゥルーズのいう特異性は「目立つ」ということとは何の関わりもない。〈爪を切らないひと〉は、スターとは正反対の、愛によって脱人格化された何者かとして、みずからの名において語る。〈爪を切るひと〉と〈爪を切らないひと〉とが重なり合う。彼らはともに、それぞれの仕方で、種子を運ぶ気ままな風になってみせる。

2017/6/17

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