2018年6月5日火曜日

〔ためしがき〕 ヨゼフィーネと断食芸人 福田若之

〔ためしがき〕
ヨゼフィーネと断食芸人

福田若之

胡桃を割ることは決して芸術ではなく、だからまた、観衆を呼び集めてその前で、皆を楽しませるためにわざわざ胡桃を割ってみせる、などといったことは誰もしないだろう。にもかかわらず誰かがそれをやってみせ、その目論見がうまくいったなら、そのときにはやはり、これはただの胡桃割りにすぎないということですますわけにはゆかない。あるいは、これは胡桃割りではあるのだが、しかし、次のことが明らかになってくる――すなわち、われわれは胡桃割りにすっかり習熟してしまっているので、この芸術を見過ごしていたのだということ、そして、この新たに現われた胡桃割り師がはじめて、われわれにこの芸術のまことの本質を示してくれたのだということが。その場合にはさらに、この師の胡桃割りの技量がわれわれのたいていの者よりも少しばかり劣っているなら、作用力という点ではその方が有効でさえあるかもしれない。
(フランツ・カフカ「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」、『カフカ・セレクションIII』、平野嘉彦編、浅井健ニ郎訳、筑摩書房、2008年、94-95頁。原文では「胡桃」に「くるみ」とルビ)
ここにいう「われわれ」はひとではなく鼠であるから、「胡桃を割ること」のニュアンスは、たとえば、ひとにとってのジャムの瓶のふたをあけること程度のことではないかと思うのだが、まあ、そのあたりは些細なことだろう。このたとえ話は、鼠の歌姫ヨゼフィーネの「歌」が「ただのちゅうちゅう鳴き」と区別のつかないものであったとしても、それはやはり「ただのちゅうちゅう鳴き」ではない、ということを説明するために語られている。胡桃割り師やヨゼフィーネは、集団にとってあたりまえのことを特別なこととしてやってのけるがゆえに芸術家なのである。

カフカが描いた人物のうちで、胡桃割り師やヨゼフィーネに代表される芸術家像とちょうど対照的に思えるのが、「ある断食芸人の話」に出てくる断食芸人だ。 断食芸人は集団から浮いている。その断食は傍から見ればとんでもない所業である。だが、彼にとって、それは実に容易なことでしかなかった。「これは彼だけが知っていて、事情通でさえまったく知らないことなのだが、断食は何と容易であることか。それは世にも易しい芸だったのである」(フランツ・カフカ「ある断食芸人の話」、『カフカ・セレクションII』、平野嘉彦編、柴田翔訳、筑摩書房、2008年、108頁)。というのも、彼にとっては、そもそも食事をすることが耐えがたいことだったからなのだ。彼には断食するしかなかった。なぜか。彼の最後の言葉は、その問いに答えるものだった――「それは、私が自分の口に合う食い物を見つけられなかったからでして。それが見つかっていたら、別に大騒ぎなどせずに、私も腹いっぱい食いましたな、あんた様や他の連中と同じに」(同前、123頁)。断食芸人は、集団にとって特別なことをあたりまえのこととしてやってのけたがゆえに芸術家だったのである。

きれいな対照だ、そんなふうに思える。けれど、それはほんとうだろうか。

ヨゼフィーネは、鼠の族にとって本来的な性質でしかない「ちゅうちゅう鳴き」を「歌」として聴かせる。「ちゅうちゅう鳴き」はあたりまえのことだが、それを「歌」として聴かせることは決してあたりまえのことではない。しかし、ヨゼフィーネはそれをあたりまえのことだと考えている。「いずれにせよ彼女は、そういうわけで、自分の芸術とちゅうちゅう鳴きとのいかなる関連をも否認している」(「ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」、前掲、95頁)。だから、彼女もまた、その意味では、集団にとって特別なことをあたりまえのこととしてやってのけるがゆえに芸術家なのだ。

断食芸人はどうだろう。彼のやっていることは、真相からすれば、嫌いなものを食べずに暮らすという、それ自体は誰もがしているようなことにすぎない。そして、彼もまた自らそれが容易であることを認めている。それにもかかわらず、彼は断食が名声や栄誉につながると考えているのである。 
何故まさに四十日目の今、中止なのか? 彼としてはもっと長い間、持ち堪えることができたのに。何故まさにいま中止なのだ? ちょうど最高の断食に達した今、いや最高の段階はまだなお、これから先に来るという、いまこの時に? なぜ人々は、更に断食し続けるという名声を私から奪うのか、あらゆる時代を越えて最高の断食芸人となるばかりではなく(その段階には彼はたぶん既に達していた)、更にその自分を越えて、凡そ不可解な段階へ進もうとする栄誉を、なぜ私に与えないのか。
(「ある断食芸人の話」、前掲、110頁)
だから、断食芸人もまた、ある意味では、集団にとってあたりまえのことを特別なこととしてやってのけたがゆえに芸術家だったのだと、いえなくもないわけだ。

そうなると、もはや胡桃割り師やヨゼフィーネと断食芸人との対照はうまく成り立たないことになるだろう。カフカ的な芸術家とは、要するに、あたりまえのことと特別なこととの区別を喪失させる者たちのことであるように思われてくる。

2017/6/5

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