2018年9月4日火曜日

〔ためしがき〕 『概念』についての覚え書き 福田若之

〔ためしがき〕
『概念』についての覚え書き

福田若之


さんかくやまの『概念』は、《書きたい》を前へと傾かせる。

ごく大雑把に言えば、メタ的な要素が特徴的な4コマ漫画だ。KADOKAWAから単行本も出ているけれど、ひとまず、ニコニコ静画版(『概念』および『概念Ⅱ』)からいくつかの例を挙げることにする。たとえば、隣り合うふたつの4コマ漫画のうち、左のほうに登場する人物が、枠線に紙コップをあてて右のほうの漫画の人物の声を盗聴する。あるいは、オノマトペがうるさいのでスイッチを押してその漫画自体をミュートにするのだが、そのせいで吹き出しのなかまで真っ白になり、人物のコミュニケーションが成立しなくなる。あるいは、4コマ漫画をきりんと一緒にやることの困難――きりんのほうは胴体しかコマに入らないので、顔を並べることができない――を、 遠近法によって解消しようとする(その結果、「くそ遠いな」ということになる)。

作られてある、ということのおもしろみに、《書きたい》がおのずから前へと傾くのだろうか。そういえば、これはとりわけ単行本にまとめられた作品群により顕著だと感じるのだけれど、『概念』の作品群はしばしば、こうしたい、こうなりたい、という望みからはじまる。たとえば、「気持ち良く/なりたい」、「パウダーに/なりたい」、「こんにゃくに/乗りたい」、「ラスボスに/なりたい!」、「暗殺したくて/たまらない…」、あるいは、「仙人の/主食として/知られる/霞を食べたい」といった具合だ。《書きたい》もまた、こうした言葉に引っ張られて生じるのかもしれない。けれど、『概念』を前にしたときに《書きたい》がおのずから前へと傾くことには、ほかにも理由があるように思う。

『概念』は、ときに、漫画としてはあまりにも言語的なおもしろみに傾くことがある。「今まで/やった事がない事に/一緒に挑戦しようぜ」「やった事がない事/何かある?」、「死んだことない」、「それは/やめとこうぜ」。 あるいは、猫「人間って大変だね…」「服を着ないと/いけないなんて…」、花「動物って大変だね…」「動かないと/いけないなんて…」、石「植物って大変だね…」「光合成しないと/いけないなんて…」、無「みんな大変だね…」「存在しないと/いけないなんて…」。最初の印象としては、これらの4コマにおいて、それが絵であることはほとんどおもしろみに奉仕していないように思える。けれど、その場合にも、絵の細部によって、それならではの何かがもたらされている。たとえば、「死んだことない」の4コマでは、2コマ目と4コマ目の構図がほとんど同じなのだけれど、2コマ目では閉じられていた登場人物のひとりの口元が、4コマ目ではわずかに開かれている――違いは極めて微細なものにすぎないけれど、それゆえにこそぐっと惹かれるものがある。「みんな大変だね…」の4コマでは、黒で粗く塗りつぶされた猫の目が、その塗りつぶしの粗さゆえに目を惹きつける。無論、こうした細部は、それぞれの作品の本筋――あきらかに、4コマ漫画においても本筋というものがある――とはさしあたり関係がない。それらは、ロラン・バルトがエイゼンシュテイン映画のフォトグラムを分析しながら語ったあの第三の意味としての「鈍い意味」を思わせるものだ。

ところで、本筋と違うところにあるこうした魅力は、いかにして生じているのだろうか。言語的なおもしろみにせよ、絵画的なおもしろみにせよ、また、それらとは別の漫画的なおもしろみにせよ、『概念』の個々の4コマがその本筋において花開かせているのは、個別に絞り出されたいくつかの形式的な特質にすぎない。たとえば、『概念』においても、枠線がつねに形式的な特質として強く意識されるわけではない(そもそも、『概念』において、つねにメタ的なおもしろみが狙われているというわけではない)。ひとつの4コマで形式の無限の可能性のすべてを汲みつくそうとすれば、おそらく、そのとき作品は失敗するしかないだろう。けれど一方で、本筋によって掬いあげられている以外の形式的な特質もまた、すくなくともいくらかは、個々の4コマにおいてはっきりと表れざるをえない。たとえば、枠線は、それとして意識されない場合にも、むしろあらためて意識されないようにするために、そのつどしっかりと引かれる(枠線が引かれない場合には、かえって枠線の不在が意識されることになる)。『概念』を読むと、そうした余った特質が、本筋とは違うところで働いているのが感じられる。

したがって、『概念』が思い出させてくれることのひとつは、ジャンルによって与えられている形式の特質の全面をあらかじめ意識化しておくことができないとしても、書くことそれ自体が、そのつど、いわばあとからその余剰を救い出すことの可能性だ。近代的な前衛芸術の理論と実践がしばしば形式に対する徹底した意識と引き換えにひとびとの《書きたい》を萎縮させずにはいないのに対し、『概念』は暗闇を動き回るサーチライトのような身ぶりで形式に対する個別的な気づきを誘発し、その結果として、《書きたい》を気楽にする。もちろん、それは決して『概念』がたやすい作品であるということではない。誰かの荷を軽くすることは、その責任感に訴えることよりもはるかにむずかしい。その実践は稀有でさえある。

2018/8/12

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