2018年9月25日火曜日

〔ためしがき〕 浮世絵、そのつや消しの美 福田若之

〔ためしがき〕
浮世絵、そのつや消しの美

福田若之


永井荷風が「浮世絵の鑑賞」という文章にこんなことを書いている。
浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹たる行燈の火影を見るの思ひあり。
「その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」。その質感を「暗澹たる行燈の火影」に喩える荷風の言葉には、『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎と通じ合うところがあり、そしてそれゆえに「夜の形式」の田中裕明とも通じ合うところがあろうと言わねばなるまいが、まずはその「光沢なし」という質感の直接な把握の言葉に着目したい。それは、ロラン・バルトの「つや消しmat」という言葉に通じているように思われる。この語は、たとえば、こんなふうに記される。
これらいくつかのアナムネーズは多かれ少なかれつや消しである(いたずらなもの――意味を免除されているものだ)。それらをつや消しにすることに成功すればするほど、それらは想像界から逃れることになる。
これは『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の一節だ。ここでいうアナムネーズとはどのようなものだろうか。まずは、そこに示されたわかりやすい一例を挙げておく。
帰りは路面電車で、日曜日の夜、祖父母のところから。部屋で夕食をとる、炉辺で、スープとトーストを。
バルトの説明はこうだ。
私がアナムネーズと呼ぶ行動――悦楽と努力のまぜこぜ――は、それを大きくみせることもなければそれをうちふるえさせることもなしに、ある思い出の微妙を主体にとりもどさせようとする、つまり、それは俳句そのものなのである。
だから、バルトにとっては俳句もまたつや消しであるだろう。すでに『記号の国』において、バルトは俳句に意味の免除を見出していた。

さて、すでに引用したとおり、バルトは、意味が免除されている状態としてのつや消しを、想像界からの逃走と結び付けていた。ところで、想像界とはどのようなものか。
想像界、イメージの包括的な想定は、動物たちにも存在する(だが象徴界はすこしもない)、というのは彼らがおとりのほうへと真っすぐに向かっていくからだ、性的なおとりであれ敵のおとりであれ、彼らに対して差し出されたおとりへと。
そして、イメージはバルトにとってはある品詞と本質的に結びついている。
彼は人間関係の極みはイメージの不在によってもたらされるものだと考えている――親しいあいだで、一方から他方への、形容詞を廃することだ、自らを形容詞化する関係はイメージの側に、支配の、死の側にある。
したがって、想像界は形容詞とかかわりがある。エクリチュールの想像界は、形容詞とともに再来するものとして語られる。
昼のうちに書いたばかりのものに、彼は夜な夜なおそれを抱く。夜は、信じがたいほどに、エクリチュールの想像界――生産物のイメージ、批判的な(ないしは友好的な)うわさ話――をまるごと連れ戻すのだ――こんなのはいきすぎだ、あんなのはいきすぎだ、それは不充分だ……。夜は、形容詞が再来するのだ、群れをなして。
荷風が浮世絵のつや消しの美に夜の行燈の火を思っているのに対してバルトが夜をつや消しの美の損なわれる時間とみなしているように思われることは、ひとまず置いておこう。バルトが俳句について言う意味の免除、すなわち、つや消しを、荷風をともに読むことを通じて、浮世絵の質感として把握してみること――それは、バルトにとっての俳句と荷風にとっての浮世絵の双方を、同時に肌で感じることを可能にするのでないか。何にせよ、両者の擦りあわせには、何かめくるめくものがあるように感じられる。

やがては、昼と夜の区別自体がもはや意味をなさなくなるだろう。黄昏は、もはや昼の終わりではなく、昼と夜の区別そのものを終わらせるものとして捉えかえされるに違いない。とすれば、もしかすると、この擦りあわせの果てには裕明のいう「夜の形式」もまた今一度捉えかえされることになるかもしれない。とりあえずここまでにしておこう。このことは、別の機会に考えてみる価値がありそうだ。

2018/8/26

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