浅沼璞
ひきつづき、平句の切字、こんかいは短句の「かな」をめぐる貞門・談林論争をみてみましょう。●
まず談林の岡西惟中の独吟百韻における短句(名オ2句目)を引きます。
額(ひたひ)えぼしの楽助なるかな 『俳諧破邪顕正返答』(延宝8・1680年)
これに対し、〈平句の哉(かな)留は何事ぞや。慮外ものよ〉(誹諧猿黐)だの、〈かな止めも、ひら句には遠慮なし〉(俳諧破邪顕正返答之評判)だのといった批判が続出しました。
前者は貞門によるものですが、後者は談林の内ゲバ的批判です。
一座一句どころか全面禁止の言挙げが、貞門のみならず談林サイドからもなされていたわけです。
もちろん惟中とて黙ってはいません。〈なんとして師を取りて習はいではしられまい。大事なことなれども、これひとつ相伝しまするぞ〉(俳諧破邪顕正評判之返答)と皮肉たっぷりに反論します。
〈惣別「かな」とおもへども、きれぬ「哉」もあるぞ。〽花は紐(下紐)柳はまゆをひらく哉 といふ「かな」は、発句にならぬ「哉」也。これを、〽花は紐柳は眉のひらき哉 とすれば発句の「哉」也〉[注1]
きれぬ「哉」=発句にならぬ「哉」=平句の「哉」という等式が成り立つようです。
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もちろん惟中とて黙ってはいません。〈なんとして師を取りて習はいではしられまい。大事なことなれども、これひとつ相伝しまするぞ〉(俳諧破邪顕正評判之返答)と皮肉たっぷりに反論します。
〈惣別「かな」とおもへども、きれぬ「哉」もあるぞ。〽花は紐(下紐)柳はまゆをひらく哉 といふ「かな」は、発句にならぬ「哉」也。これを、〽花は紐柳は眉のひらき哉 とすれば発句の「哉」也〉[注1]
きれぬ「哉」=発句にならぬ「哉」=平句の「哉」という等式が成り立つようです。
これは前回もらした愚説「切字として〈用ひざる時は〉平句に切字あるもよし」に通底する相伝といっていいでしょう。
例の芭蕉の〈切字に用ふる時は四十八字皆切字なり。用ひざる時は一字も切字なし〉(去来抄)というのも、案外こうした相伝をバックボーンとしていたのかもしれません。
ま、それはそれとして、惟中の言葉にもどりましょう。
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ま、それはそれとして、惟中の言葉にもどりましょう。
「ひらく」の動詞を「ひらき」と連用形によって名詞化すると切れると惟中は言います。
そして〈うくすつぬふむゆるうの仮字(仮名)よりつゞきたる「かな」は、何時もきれませぬぞ〉と切れない例としてウ段の活用語尾を列挙します。
さらに「額えぼしの楽助なるかな」の自句にふれ、〈「なる哉」といふ「かな」、なるほど俳諧(連歌)に大事ないぞ〉と結語します。
動詞ウ段は終止形でもありますが、「なる」はラ変なので連体形と限定できるでしょう。
動詞ウ段は終止形でもありますが、「なる」はラ変なので連体形と限定できるでしょう。
そこで活用語の連体形につく「かな」は切れないと拡大解釈してみると――前回の杜國の平句〈おかざきや矢矧の橋のながきかな〉は形容詞・連体形+「かな」で切れないということになります。[注2]
よって「や」を気にしなければ理論上は平句としてセーフ。
ちなみに名詞化すれば切れるというなら〈おかざきの矢矧の橋のながさかな〉とでもすれば発句になるということでしょうか。
ま、文法的な詮索はほどほどにして、「切れなければ平句に哉を使ってもよい」というような相伝があった(らしい)ことはここで注目しておくべきでしょう。
ところで同じ切字でも第三の「けり」に関しては厳しい見方を惟中はしており、それに絡んで同門の西鶴批判も辞さなかったようですが、長くなりそうなので――
「またまた後回しかいな」
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ま、文法的な詮索はほどほどにして、「切れなければ平句に哉を使ってもよい」というような相伝があった(らしい)ことはここで注目しておくべきでしょう。
ところで同じ切字でも第三の「けり」に関しては厳しい見方を惟中はしており、それに絡んで同門の西鶴批判も辞さなかったようですが、長くなりそうなので――
「またまた後回しかいな」
だ、か、ら、トリですって。
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[注1]引用は古典俳文学大系本。()内は浅沼註。「花の下紐」は花のつぼみのたとえ。
[注2]山田孝雄『俳諧文法概論』(1956年、宝文館)では連体形につく「かな」の用例として芭蕉〈こがらしの身は竹斎に似たる哉〉と併せて杜國〈おかざきや矢矧の橋のながきかな〉をあげている。ここでは発句/平句は区別されていない。
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