2024年7月29日月曜日

●月曜日の一句〔行方克巳〕相子智恵



相子智恵






肥後守蛇の匂ひのこびりつき  行方克巳

句集『肥後守』(2024.6 深夜叢書社)所収

「肥後守ナイフ」というものを、今の若い人は知らない人も多いかもしれない。簡易的な折り畳みナイフで、鋼の持ち手の中に刃が入っている(ウィキペディアのリンクを貼っておこう)。

昭和50年代に生まれた私でも、小さい頃にはまだ家にあって、鉛筆削りは手動のものも電動のものも普通にある時代なのに、なぜか小学生の頃、肥後守ナイフで鉛筆を削る練習などをさせられたものだ。実家の勉強机の引き出しの中にしまっていたと思うが、まだあるだろうか。

子どもが持っていたもの、という印象があるから、掲句も子どものいたずらであろうと想像される。蛇を獲って切ったか、剥いだのだ。蛇の血を洗っても、その匂いがこびりついている。この残酷さが往年の子どもらしさともいえ、ある年代以上の人々の郷愁を誘う句である。

 

2024年7月26日金曜日

●金曜日の川柳〔野口裕〕樋口由紀子



樋口由紀子





綿棒を入道雲に突っ込んだ

野口裕(のぐち・ゆたか)1952~

今日も猛暑で入道雲がむくむくと張り出している。いつまでこの暑さが続くのだろう。うんざりする。風船に針を刺して、風船をしぼませるように、入道雲に綿棒を突っ込んで、入道雲を退散させたい、そう思ったのだろうか。それとも綿棒を突っ込んだら、耳掃除してもらうように気持ちよくて、入道雲はムクムクと動き出すと思ったのだろうか。どちらにしても子どものいたずらのような、遊び心満載の一句である。

実際にはありえない景を言葉で立ち上がらせている。愉快な発想で、想像を超えた臨場感がある。無為の行為への注目に人をくったようなユーモアがあり、独自の生命力と描写力にあふれている。

2024年7月24日水曜日

●西鶴ざんまい #64 浅沼璞


西鶴ざんまい #64
 
浅沼璞
 

 浅草しのぶをとこ傾城   打越
なづみぶし飛立つばかり都鳥 前句
 花夜となる月昼となる
   付句(通算46句目
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折、裏10句目。恋離れ。月の定座ながら13句目の花を引き上げて*春。
*月花=発句では風雅を表し、雑の扱い。連句では花をメインにして春に扱うが、一座一句が原則。なお芭蕉の〈月と花比良の高ねを北にして〉〈此島の餓鬼も手を摺る月と花〉〈有明におくるゝ花のたてあひて〉等はいずれも歌仙・初裏の月をこぼし、花の座で花と結んでいる。

【句意】やがて*花見は夜となり、月見は昼となる。
*〈花も散るに歎き、月は限りありて入佐山〉『好色一代男』冒頭

【付け・転じ】打越・前句=男娼に遊女の恋情を向かいあわせた付け。前句・付句=「なづみぶし」を舟遊びの余興と見立て、浅草(隅田川)との打越を避け、遊興の有限性をもって転じた。

【自註】*三筋の色糸程、人の気をうごかせる、又なし。殊更(ことさら)夏川の舟あそび、むかしは*九間市丸を*三つまた・*両国ばしのほとりにさしよせ、簾ほのかに遠音の撥(ばち)に波の声立て、士農工商のわけなく、思ひ/\の夕涼み、夜とも昼とも酒にわすれて現(うつゝ)にうかれたるありさま、此の川水に*命のせんたくと、身の養生しれる人のいへり。
*三筋(みすぢ)=三味線  *九間市丸(くまいちまる)=大型の屋形船。
*三つまた(三俣)=隅田川の分流点にして月見の名所。 *両国ばし=納涼の名所。
*命のせんたく(洗濯)=諺。日頃の苦労を忘れるための保養や気晴らし。

【意訳】三味線の音色ほど、人の気持ちを動かすものはほかにない。とりわけ夏の舟遊びに、昔は九間市丸を三俣や両国橋の辺に寄せ、簾を掛け、ほのかに遠音の撥の音に波の声をたてて、士農工商の身分の隔てなく、思い思いの夕涼み、夜も昼も酒に忘れて夢うつつに浮かれたありさま、(それは)この隅田川の水で「命の洗濯」をするのだと、心身の健康を心得た人が言った。

【三工程】
(前句)なづみぶし飛立つばかり都鳥

 両国ばしのほとりに遊び  〔見込〕
   ↓
 夜とも昼とも酒にわするゝ 〔趣向〕
   ↓
 花夜となる月昼となる    〔句作〕

「なづみぶし」を舟遊びの余興と見立て〔見込〕、どのような様子かと問いながら、昼夜を分かたぬ有りさまに着目し〔趣向〕、月の座に花を引き上げ、月花の有限性を詠んだ〔句作〕。

 
月の座に花を引き上げるなんて鶴翁もやりますね。
 
「そやで、蕉翁はなんやら出なかった月を花の座で拾うてるだけやけどな」(ドヤ顔)
 
でも鶴翁も〈*云ひぶんを分けておかるゝ月と花〉とか〈*月に花ちらする銀を当座借リ〉とか、花の座で月を拾ってますけど。
 
「……そやったか。……昔のことは忘れたがな」(渋面)
 
*云ひぶんを=「独吟一日千句(第九)」1675年。
*月に花=「大矢数(第十六)」1681年。

2024年7月22日月曜日

●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵



相子智恵






ぼうたんに昼を退(の)きゆく日影かな  岡田一実

句集『醒睡』(2024.5 青磁社)所収

「花の王」とされる大輪の牡丹の花。ややクシャっとした花弁の重なりは、遠目で見れば、幾重にも重なったフリルのように花の豪華さを印象づけ、近づいてみれば一枚一枚の花びらは、繊細な薄さをもっている。

そんな牡丹の花に、日の影ができている。〈昼を退きゆく日影〉というのは、昼が過ぎて夕方となった淡い日影、ということなのだろう。花の輪郭がうっすらと出る日影だ。

〈昼を退きゆく〉によって、逆にその前の時間、つまり昼真っ盛りの時間の、くっきりとした日影も想像させる。真昼の光に照らされた牡丹の花は豪華さを増し、その影も輪郭がくっきりして力強いことだろう。しかし、〈昼を退きゆく〉という今は、花も影も繊細さのほうが増してくるのである。

豪華さと繊細さが同居する牡丹の花に、昼と夕方という光の対比を重ね、時間と空間にふくらみと陰影をもたせた、味わい豊かな写生句である。
 

2024年7月19日金曜日

●金曜日の川柳〔木下愛日〕樋口由紀子



樋口由紀子





人はみな若き日をもつ角砂糖

木下愛日(きのした・あいじつ)1900~1984

喫茶店でコーヒーカップの皿に角砂糖が二個ついていた時代の川柳だろう。珈琲に入れるとみるみる砂糖が角から溶けて、跡形のなく消えて、珈琲が一気に甘くなった。人は誰でも角砂糖のように甘くて角がある若い日があった。

先日の句会で参加者の中で最高齢であった。若い人たちは眩しく、もうそういう年齢になったのかと軽いショックを受けた。あっという間に歳をとる。そんな心情を「角砂糖」に添わせている。甘さ、大きさ、形状を受けとめて、「角砂糖」の体言止めが効果的に使われている。『愛日』所収。

2024年7月15日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木しげを〕相子智恵



相子智恵






ペン抛げてさて冷麦にいたさむや  鈴木しげを

句集『普段』(2024.5 ふらんす堂)所収

〈ペン抛げて〉の勢いが楽しい。根を詰めて書いていた仕事を何とか終わらせた解放感、あるいは終わっていないけれど「ええい、今日はここまででいいや!」と勢いで決め、きっぱりと食事に切り替えた感じが生き生きと伝わってくる。

素麺よりも太い冷麦の野趣のある感じが、この豪快さとよく合っている。これが素麺では〈ペン抛げて〉に対して、ちょっと頼りないのである。同じ句集の中に

  筆に腰さうめんに腰秋はじめ

という句があって、こちらも筆と麺を並べて見せたところに、そこはかとない諧謔はあるのだが、それでもこの句は素麺の繊細さが、〈秋はじめ〉の微妙な季節の移り変わりを感じる心と相まって、やや上品な感じがする。

冷麦と素麺の微妙な素材の違い。それを的確に扱うという、何でもないようなことなのだが、そんなところからも、六十年、俳句と向き合ってきた人の、力を抜きつつも季語の急所を外さない、匙加減のよさを感じる。

 

2024年7月12日金曜日

●金曜日の川柳〔野沢省悟〕樋口由紀子



樋口由紀子





五十過ぎて卵に顔が描けそうだ

野沢省悟(のざわ・しょうご)1953~

五十までは卵に顔が描けなかったわけではないだろう。描こうと思えばできたはずである。卵に顔を描く技術はそれほど必要とはしない。ただそういうことをやろうと思わなかった。無駄なこと、どうでもいいこと、そういうことはしてこなかった。それが何も躊躇もなくすんなりとできる。「五十過ぎて」というのが微妙で絶妙な年代設定である。顔も身体も心もだんだんまるくなる頃である。

作者は私と同年齢。五十過ぎより、たぶん、今はもっと丸くなってきただろう。私も七十を過ぎてますます身軽に気軽になった。環境の変化がそうさせる部分もあるが、どうでもいいことが増えて、こだわりが減り、いいかげんになって、人生はますます楽になる。『セレクション柳人 野沢省悟集』(2005年刊 邑書林)所収。

2024年7月10日水曜日

●西鶴ざんまい #63 浅沼璞


西鶴ざんまい #63
 
浅沼璞
 
 
厚鬢の角を互に抜あひし   打越
 浅草しのぶをとこ傾城
   前句
なづみぶし飛立つばかり都鳥
 付句(通算45句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏九句目。恋。冬(都鳥)。
 なづみぶし(泥み節)=客の心をひく遊女の唱歌。 飛立つばかり=泥み節の歌詞。
 都鳥=「かもめの事也、冬也、角田川に多鳥也」(西鶴『俳諧之口伝』1677)。『はなひ草』でも冬。『御傘』『俳諧無言抄』などでは雑。

【句意】泥み節の「飛立つばかり」という遊女の恋情は、*伊勢物語の都鳥の歌(を思わせる)。
*東下り〈名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと〉業平

【付け・転じ】打越・前句=役者を男娼に取り成しての付け。前句・付句=男娼に遊女の恋情を向かいあわせての転じ。

【自註】傾城町にそなはりしなげぶし(投げ節)の「あひた見たさは飛立つばかり、*籠の鳥かやうらめしや」とうたへり。其の*移りを「都鳥」といたせしは、浅草の付寄せに隅田川を出だしける。又、此の前、*三野に加賀津といへる遊女の一ふしうたひ出して世に時花(はや)りし、今のかゞぶし(加賀節)の事也。是をなづみぶしといへり。
*籠の鳥=自由を拘束された遊女の心情を託す。
*移り=前句との付肌の調和を計る付合技法。後述〈恋種や〉のページ参照。
*三野(山谷)=新吉原

【意訳】遊里につきものの投げ節では「あいた(さ)見たさは飛立つばかり、籠の鳥かやうらめしや」と謡っている。それを引き移して「都鳥」と致したのは、前句の浅草に隅田川を付け寄せたからである。また以前、新吉原の加賀津という遊女が謡いだして世に流行った(のは)今の加賀節のことである。これを泥み節と言っている。

【三工程】
(前句)浅草しのぶをとこ傾城

  此のところ投げ節はやる隅田川 〔見込〕
    ↓
  あいたさの飛立つばかり隅田川 〔趣向〕
    ↓
  なづみぶし飛立つばかり都鳥   〔句作〕

男娼に遊女の恋情(=投げ節)を向かいあわせ〔見込〕、どのような歌詞かと問いながら一節を引ききたり〔趣向〕、その歌詞のニュアンスを「都鳥」に移した〔句作〕。

 
投げ節、加賀節、泥み節と出てきて分かりにくいのですが。
 
「じつは他にもいろいろと謂れがあってな、ややこしいんやどな、ここでは京・島原で流行った投げ節のな、その起源が江戸・新吉原いうことを強調したかったんや」
 
前句に「浅草」とありますからね。
 
「というか、そもそも前句に浅草を詠んだんはな、六句前の恋句が島原やったろ」
 
あー、たしか〈恋種や麦も朱雀の野は見よし〉でしたね。六句去りながら、恋の場を京から江戸へ転じたってことですね。https://hw02.blogspot.com/2024/02/55.html

2024年7月8日月曜日

●月曜日の一句〔黒岩徳将〕相子智恵



相子智恵






スーパーに会ふ妹のサングラス  黒岩徳将

句集『渦』(2024.5 港の人)所収

この兄妹はすでに成人している、あるいは学生だとしても大学生くらいか、と想像する。家族みんなで一緒に出かけることもなくなり、子ども達が、自分の食べたい物を、ふらふらとスーパーに買いに出かける休日もある。……そんな、個々人が自由になってくる頃の家族の一場面だ。もしかしたら、この妹は、実家を出て近所で一人暮らしなどをしているのかもしれない。

家族を詠んだ俳句の中で、この年代の家族の日常というのは、案外書かれることが少ないことに気づかされる。家族詠は幼い子どもや老いた父母など、誰かが誰かに手を貸さないと暮らせない時期の句が多いものだ。

掲句、「地元的脱力感」のあるサングラスがいい。サングラスと言えば海や行楽……といった特別感は、現代では、すでに薄れてきたといえるのではないか。それほどに地球の夏の環境が厳しくなってきたというのもあるし、ファッションアイテムとして馴染んできたということもある。

それでも、自宅で会う妹とは違う、「一枚羽織った感じ」くらいのおしゃれ感、そのかすかな驚き。この脱力感が現代の俳句だな、と思う。

 

2024年7月5日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



紙オムツどんな雲にも名があって  なかはられいこ

《紙オムツ》という、生まれて最初期のコミュニケーション(観念的にも身体的にも最初期の)を強く指し示す事柄と、雲が名付けられることが併置される。名付けていくことも、また、なにかの始まりだろう。併置されたこのふたつは、すがすがしくいきいきとした関係を結ぶ。幸せというとナイーヴ過ぎるが、そんなことが生まれたとたんに始まると言ってもらえているような気がする句(じっさいには、いろいろあるんだけどね)。

掲句はなかはられいこ『脱衣場のアリス』(2001年4月/北冬舎)より。

2024年7月1日月曜日

●月曜日の一句〔九里順子〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




昼寝覚大きな空の風が吹く  九里順子

昼寝と空がつながり、気持ちのいいこと、このうえない句。

ところで、細かいことをいえば、《大きな空の/風》なのか《大きな/空の風》なのか。俳句に限らず、また日本語に限らず(?)、形容詞がどこにかかるのか問題は、たびたび生じる。

前者を、説明的に退屈に解きほぐせば、大きな空を吹き渡る、あるいは大きな空から吹いてくる風ということになろうか。後者は、空を吹く風、あるいは空から吹いてくる風が大きいという、ある種の感嘆・興趣となろうか。

助詞「の」は、とりわけ俳句の中の「の」は、だいたいの場合、多義性を備えていて、一筋縄にはゆかない。

閑話休題。前者か、後者か。

ちょっと考えてみて、どちらでもいい、という自分の答え。

意味を限定・確定させる必要もないので、《大きな空の風》と、ひとかたまりに捉えて、飲み込む、あるいは、この句の昼寝人のように、一身に受け止める。

いずれにせよ気持ちの良い目覚め。

掲句は九里順子句集『日々』(2024年2月/鬣の会)より。