2025年10月31日金曜日

●金曜日の川柳〔大山竹二〕樋口由紀子



樋口由紀子





かぶと虫死んだ軽さになっている

大山竹二(おおやま・たけじ)1908~1962

かぶと虫の死骸が道端に転がっていた。死んでから日が経っているのか、干乾びている。腰をかがめて、よく見ると、生きているときのぎらぎら感は抜けて、この世を務め終えた安堵感が漂っている。

生きていくのはしんどいことである。否応なく義務と重荷を背負わされ、肉体的や精神的な負担は半端ではない。「死んだ軽さ」にどきりとする。自分も死ねばかぶと虫のようになれるのだろうか。「やって楽になれたね。もうがんばらなくていいよ」とかぶと虫にささやいているようである。「生き物」から「物」へ、すべてから解放され、吹けば飛ぶように身軽になる。『大山竹二句集』(1964年刊 竹二句集刊行会)所収。

2025年10月24日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕樋口由紀子



樋口由紀子





ゆっくりとひつまぶししてゆきなされ

広瀬ちえみ(ひろせ・ちえみ)1950~

ひらがなのビース玉を糸に通していて、うっかり「ま」と「つ」の順序が前後した。やり直そうかと思ったが、これはこれでまた違った光沢が出たのでそのままにしておく。そんな川柳である。しかし、ビーズ玉のようにはコトはスムーズに運ばない。「ひつまぶし」と「ひまつぶし」は似て非なる、まったくベツモノで、一字違いの大違いで独り立ちしている。

言葉にはどう振り払っても、意味が張り付いている。しかし、伝達、説明、報告だけが役目ではない。川柳は意味をターゲットにする。こだわりながら、揶揄(からか)い、意味そのものを味わい、可笑しさや愉しさにたどり着く。意味は謎であり、この上なく魅惑的である。『雨曜日』(2020年刊 文學の森)所収。

2025年10月23日木曜日

●西鶴ざんまい 番外篇29 浅沼璞

   


西鶴ざんまい 番外篇29
 
浅沼璞
 
 

前評判どおり大規模な巡回展ということで、いろいろ工夫がなされており、修復によるガッカリ感はありませんでした(もしあったら、展示替えの多寡にかかわらず、後期展まで足を運ばなかったでしょう)。

わけても撮影可エリアでは、現地・土佐の夏祭を模して設営された絵馬台(台提灯)が幾つもあり、二曲一双の芝居絵屛風を掲げていたばかりではありません。提灯や裸ローソクを模した照明の微妙な変化が、夕方以降の夜祭を演出していました。

入館者が山門型の絵馬台を見上げ、くぐり抜けると、次の絵屛風が薄闇に浮かびあがってくるという寸法です。

かつてバフチンが言挙げしたカーニバル的な祝祭空間の、東洋的な再現として見ることも可能でしょう。

ところで絵金の芝居絵屏風といえば、凄惨な「血赤」に染まった無惨絵というイメージが先行しがちですが、異時同図法を駆使したその背景には、庶民的な笑いが随所に描かれており、思わず笑みをこぼす入館者もちらほら(SNSでも戯画的側面へのコメントあり)。

たとえば敵役の侍の立派な羽織に男女和合の紋章があったり(16.播州皿屋敷)、争う女方ふたりの後方に藁屋根があって、そこで猫が番っていたり(17.楠昔噺)、はたまた悲壮な場面ながら男根をかたどった位牌を女方に握らせたり(19.忠臣二度目清書)、そのほか覗きや盗み喰いの滑稽な描写まで――さきほど「カーニバル的な祝祭空間」と称した所以です。(作品番号は展示替リストによる)

そういえば絵金の両面価値については、先師(廣末保)のこんな一節が残っています。
〈いたずらっぽく卑猥な笑いをその背景にもちこむことで、ある種の違和感をつくりだしているともいえるが、その違和感は、悲劇的なドラマのエネルギーを、庶民の卑近な解放感と交錯させ、その結果の、集中と拡散を通して、イメージを多義化するのに役立っている。〉(「幕末転形期の芸術」『絵金』1968年)

この多義化は西鶴や南北の作品にも通底する近世的特色かと愚考するばかりです。


《附記》
この大規模展に合わせたのか、新宿K'sシネマ「奇想天外映画祭2025」では伝説の絵金映画『闇の中の魑魅魍魎』(1971年、中平康監督、新藤兼人脚本)の上映があり、念願の鑑賞を果たしました。

賛否両論ある問題作ですが、かつて松田修が指摘したように、60年代後半のブームを象徴する絵金神話の、その一つの極みと言ってよいでしょう。

とりわけ絵師・金蔵(麿赤兒)と漁師・太吉(土方巽)の競演は暗黒舞踏さながら。松田修もそのシーンを無視できなかったようです。

〈月光に怒涛が躍る赤岡の浜辺に、漁師太吉とともに、酔い、踊り、絶叫する金蔵――それは己れの原初的生に帰ろうとする金蔵の聖水儀礼ではなかったか。〉(「絵金神話の詩と真実」『刺青・性・死』1972年)

興味のある向きはぜひ(サン美、K'sシネマともに11月3日まで)。
 

2025年10月17日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子





非常口などない 秋の箱の中

米山明日歌(よねやま・あすか)1953~

「非常口などない」という唐突な宣言のような導入で一句は始まる。それを受け止めるのが魅惑満載で魑魅魍魎な「秋の箱の中」。秋に魅せられ、紅葉に絡めとられたていく。「秋の箱の中」に一歩でも足を踏み入れたら、もうそこから出ることはできない。

一字空けは一呼吸して、この状況を決意するためだろう。その後、勢いをつけて、スピードを上げて、迷いはなくまっすぐに邁進する。これからわが身が遭遇する、すべてを受け入れる覚悟と情念のようなものが見える。最強の恋句であろう。「What's」(8号 2025年4月刊)収録。

2025年10月10日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕樋口由紀子



樋口由紀子





鶏冠にブーケ 病室は鯖を焼く

榊陽子(さかき・ようこ)

ブーケは花嫁が結婚式に持ち、祝福や愛の象徴とも言われている。それを鶏冠にとは、嫌み以外のなにものでもない。病室は当然ながら火気厳禁。食事制限もあるのに鯖を焼くことなんてとんでもない。なぜ、そんなことをするのか。喩として機能しているのでもなさそうで、まして、物語のように、なんらかの事情でそうするしかなかったというのでもないだろう。

どのような読まれ方をしてもしかたがないという開き直りがある。さらっと口にした軽みで、やっかいな自分を投影しているように見せかけているが、作品イコール作者ではない。屈託や逡巡を繰り返す、醒めたセンスのキャラクターを立ち上げたのだ。

2025年10月8日水曜日

●西鶴ざんまい #84 浅沼璞


西鶴ざんまい #84
 
浅沼璞
 
   今胸の花ひらく唐蓮     打越
  蟬に成る虫うごき出し薄衣   前句
   野夫振揚げて鍬を持ち替へ  付句(通算66句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏2句目。 雑。 野夫(やふ)=農夫。

【句意】農夫は振上げた鍬を持ち替えている。

【付け・転じ】前句の蟬の脱皮・羽化を畑の土中の虫のようなものの様子と見なし、農夫に発見させた。

【自註】里人(さとびと)、野に出でて*ものつくりせしに、土中より目なれぬ**虫などの動き出でしに、気を付けて、ふりあげたる鍬をおろさず、しばし見合はせたる身振りを付けよせける。
*ものつくり=農作。 **虫など=虫のようなもの。

【意訳】田舎の人が野に出て農作業をしていたところ、土の中から見慣れない虫のようなものが動き出したのに気がついて、ふりあげた鍬をおろさず、しばらく様子をみるしぐさを付け寄せた。

【三工程】
(前句)蟬に成る虫うごき出し薄衣

   ものつくりせし土の中より  〔見込〕
     ↓
   野夫振揚げて鍬をおろさず  〔趣向〕
     ↓
   野夫振揚げて鍬を持ち替へ  〔句作〕

前句の羽化する蝉の蛹を土中の虫のようなものと見なし〔見込〕、〈それを見つけた者はどうしたか〉と問うて、農作業を中断したとし〔趣向〕、「鍬を持ち替へ」と暫し様子見のしぐさを活写した〔句作〕。

前にも農夫が作業中に棺桶を掘り当てる句がありましたね。
「掘り当てて哀れ棺桶の形消え、やろ」
そうです、そうです。それにしても鶴翁は商人出身なのに、農業の句、意外とありますね。
「わしらん頃の商人(あきんど)はな、もともと農家の次男・三男いうのが珍しくなかったんやで」
それで農作業のこととか聞き及んだんですか。
「そやな、話し上手の聞き上手、地獄の耳の耳学問や。呵々」