2010年8月31日火曜日

●おんつぼ33 真心ブラザーズ 山田露結


おんつぼ33
真心ブラザーズ

山田露結


おんつ ぼ=音楽のツボ





「オマエ、就職どうするんだ?」

「就職はしないよ。バンド組んで、メジャーデビューしたいんだ。」

「バカモンっ!何考えとるかっ!」

1980年代後半から90年代にかけて、若者達の間で起こった一大バンドブーム
新宿、渋谷、下北沢...、どこのライブハウスも熱狂に満ち、原宿のホコ天では毎週毎週おびただしい数のアマチュアバンドが競って演奏していた。
テレビの人気番組「いかすバンド天国」(通称イカ天) からは続々と人気バンドが生まれ、昨日まで無名だったバンドが次々とスターになって、華々しい活躍をしていた。

東京で学生生活を送っていたギター少年山田くんもまた、自分のバンドで人気者になることを夢見ている一人だった。

しかし、いくらブームとはいえ誰でも手軽に人気者になれるはずはない。
山田くんのバンドは新宿と下北沢にあるライブハウスに定期的に出演していたが、人気バンドどころか毎月のチケットのノルマ分を捌くのがやっとでメジャーデビューなど夢のまた夢だった。

それでも山田くんは自分達のバンドが一番だというまったく根拠のないプライドだけは持っていた。

「イカ天に出るのってさあ、なんかダサいよね。」

「うん、ちょっと違うよね。」

バンド仲間とそんな風に話しながらイキがっているつもりでいた山田くんだったが、内心はただ怖かっただけだった。番組に出演したらきっと審査員からボロクソに言われる。そして、自分には才能も実力もないということを思い知らされるんじゃないだろうか。そんなこを考えると、とても番組に出演してみようという気にはなれなかったのである。

そんなとき、いわゆる一連のバンドブームの流れとは少し違うところから登場した二人組がいた。
「真心ブラザーズ」である。

「真心ブラザーズ」はフジテレビの「パラダイスGoGo!!」 というバラエティ番組の「勝ち抜きフォーク合戦」というコーナーで勝ち抜いたことがきっかけでデビューしたフォーク・デュオである。
彼らの登場を見て、バンド活動がいまいちパッとしなかった山田くんはピンときた。

「この手があったか。フォークなら手軽だし、遊びで出てみようかな。そんでうまくすればデビューの話なんか来たりして。そしたら、第二の真心ブラザーズだ。ひひひっ。」

軽薄というか身軽というか、山田くんはすぐに友人の吉田くんを誘ってフォーク・ユニットを結成し、番組出演のオーディションを受けることになった。
ユニット名はズバリ、「吉田と山田」。

しかしながら、現実はそう甘くはない。
一応、オーディションは通過し、番組一週目では何とかチャンピオンと引き分けたものの、二週目であえなく敗退。

「なかなか難しいもんだなぁ、おい。」

相方の吉田くんにそう言うと、彼は山田くんの選曲に敗因があると言い出した。
もっといい曲があるのに、妙に身構えすぎて凝った曲を選んだのがいけなかったと山田くんを責めたのである。

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。もう終わったんだから。」

ほんの遊びのつもりではじめたフォーク・ユニットなのに何だか二人の関係は妙にギクシャクしたものになってしまった。その後、「吉田と山田」は二度と活動することはなかった。
それどころか、山田くんがバンドに戻ると勝手に別ユニットを作ってテレビのオーディション番組にに出たことをバンドのメンバーにとがめられ、バンド内の雰囲気までギクシャクし始めてしまったのである。
やがて、バンドは自然消滅。
山田くんの軽薄な行動は山田くんから音楽活動そのものを奪うことになってしまったのであった。

 

さて、そんな学生時代から二十年あまり。
「就職はしない」と親に噛み付いていた山田くんも家業を継ぐために田舎へ帰り、結婚し、今では二人の子供のお父さんである。
一方、フォーク・ユニットの相方の吉田くんはというと大学卒業後「ドミンゴス」 というバンドを結成して吉田一休の芸名でメジャーデビューを果たし、今も音楽活動を続けている。

山田くんが大学を卒業してしばらくしてからのこと、ある日コンビニで流れていたある曲にふと耳を傾けていた。

♪ああ あの頃のぼくより~ 今のほうがずっと若いさ~

ボブ・ディランの名曲「My Back Page」を真心ブラザースが日本語で歌っていたのだった。
山田くんにっとって、真心ブラザースは手が届きそうに思えて、しかし決して手の届くことのなかった遠い存在。

♪白か黒しかこの世にはないと思っていたよ~
 誰よりも早くいい席でいい景色がみたかったんだ~

ストレートな歌詞が山田くんの心をグッと捉えた。
音楽に夢中だったあの頃への複雑な思いがよみがえってきたのである。


  秋麗やエレキギターを草に置き 露結


いつしか大人になってしまった山田くんだが、今も時々この曲を聴きながら当時を思い出すことがある。
それは、山田くんにとっていつでも青春の頃の甘酸っぱい気持ちに戻ることの出来る大切なひとときなのである。


「あの頃」度      ★★★★★
青春のバカヤロー度   ★★★★★


オススメアルバム



2010年8月30日月曜日

●太陽

太陽



太陽はいつもまんまる秋暑し  三橋敏雄

2010年8月29日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔32〕踊

ホトトギス雑詠選抄〔32〕
秋の部(八月)

猫髭


づかづかと来て踊子にさゝやける 新潟 高野素十 昭和11年
(「づかづか」は繰り返しの「くの字点」表記)

俳句を始めた頃に初めてこの句を読んだとき、これは海外のレヴューで踊っている踊子の一人に、観客席から男が傍若無人にもいきなり舞台に上がって割り込み、何事か腕を取って耳打ちする、フランスのフィルム・ノワールの一シーンのような緊迫したイメージを持った。

連想したのは、1954年のフランス映画「フレンチ・カンカン」のジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールのコンビと(言わずと知れた哀愁を極める「ヘッド・ライト」のコンビである)、1960年のアメリカ映画「カンカン」のフランク・シナトラとシャーリー・マクレーンのコンビ(シナトラが劇中で歌う「It’s all right with me」のバラードはシナトラの最高傑作であると共にバラードの白眉)だった。黒澤明の『野良犬』の木村功と淡路恵子のコンビのイメージもあったかもしれない。

ずっと、そう思い込んでいた。

ところが、清水哲男の「増殖する俳句歳時記」の鑑賞を読んで驚いた。
俳句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。 女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)(註1)
しかし、どう考えても、掲出句は盆踊りの景とは合点が行かなかった。非常にバタ臭い句に思えたからだ。だが、『ホトトギス雑詠選集』には「新潟」と投句地が載っていたので、新潟の盆踊りを詠んだ句かという事実は動かしがたかった。

ところが、昭和58年の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)の机上版を見たら、山本健吉の解説に掲出句に触れて、
素十は、ヨーロッパ留学中の作品だから、盆踊であるはずはないが、句中に踊子の季語があり、擬制としての有季俳句と取り、盆踊の一情景と見なすことが許される。
と、またまた驚くことが書いてあった。「擬制としての有季俳句」というものがあったとは。

で、『素十全集 第一巻 俳句編』(明治書院)を見ると、昭和11年10月にホトトギス雑詠入選句としてこの句が載っているが、前詞はなく、「ヨーロッパ留学中の作品」とはわからない。本人が明かさなければ句の出自はわからない。多分、俳人協会からは『自註現代俳句シリーズ』が二百冊以上出ているし、『自選自解句集』というのも白凰社から出ているから、これらのどこかで作者が自解しているのだろう。わたくしは自句自解は自句自壊であると思うので、これ以上出自には立ち入らないが、おそらく掲出句は社交ダンスの場面だろう。ダンスのパートナーを素十は「踊子」と詠み替えたという気がする。その意味での「擬制としての海外咏俳句」というならわかる気がする。

だが、「づかづかと来て」という措辞には、やはり「盆踊」は似合わない。盆踊は普通は浴衣を着て下駄か草履か踊足袋で踊るものである。「づかづかと来て」には靴の響きがある。



(註1)『増殖する俳句歳時記』1999年8月14日掲載。

写真 前1点:猫髭/後2点:田村行穂 高円寺東京阿波おどり 2010年8月28日

2010年8月28日土曜日

●主体は変容するのか 2/2 橋本直

主体は変容するのか 2/2

橋本 直

ところで以前、高柳克弘さんも週ハイで触れていた(→参照)けれども、文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。つまり、いままでなんとなく指導書通りにすましたり、時間数がきつくなってささっととばすこともあったような俳句の授業を、読むだけでなく作る教科としてとりあげないわけにはいかなくなろうとしている。

ちょっと大上段な物言いの仕方になるのだが、学校社会において教員は、生徒にとって絶大な権限を持つし、生徒のためのあらゆるお手本を示せる立派な大人の代表(よき統率者)としてちゃんとつとめなければならないものだ。教科ならば何を問われても頭の中に正解があって、見解をだせることが日々要求される。しかし、俳句はそれがなかなか困難な表現分野であるだろう。

今回の俳句甲子園ムックに紹介されている優れた指導者達はかなり例外の側で、多くの国語教師は詠み方も読み方も確固たる自信を持って提示することができないと推定する(そのふりはできるだろうが)。もちろん指導書通りにやるのなら何も難しくはないし、作句そのものは五七五にするだけならお手軽ではあるので授業で詠ませることはできるだろう。が、新しく生まれたその作品群の「正しい」評価のモノサシはどこにあるだろう?今、ほとんどの場合教員自身の判断はなされないまま大量の「俳句」が伊藤園や神奈川大などの学生俳句賞に投稿されているのが現状であろう。しかし、教員が判断を丸投げするなどということは、制度にそれをとりこむ立場からすれば、あってはならないことだ。石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。歴史的に「国文学」と「国語」はそのような経緯をもつしろものだったりするけれども、その中にあって俳句は、これまで例外的な位相にあったと思う。モノサシがないゆえに。

俳句甲子園が俳句にディベートの形式をもちこみ、詠み方/読み方を提示していくことや、その出身者が大活躍して詠み方/読み方を自信を持って書いていくことは、実は当の本人達には無関係に、世の教員や文科省にとっては非常なる福音なのである。それをふまえた俳句のディベート法とか読み方の本が今後企画されるかもしれない。先の関氏の時評を併せて考えてみると、結果的にそれはまさに権力側の引いた補助線の上でその意図にかなう動きが展開しているという視点が提示される。善悪の判断はその主体に任されないままに状況はどんどん俳人の外で動いている、とでもいえようか。

冒頭の話にもどる。俳句甲子園が今ほど世に知られてなかった頃、あれは松山のある商店会が中心になって立ち上げたもので、地元の俳人は基本的に非協力的だったと噂に聞いたことがあった。今回商売の神様を祀った神社に句碑が建ったというのは、そういう中で長く頑張って盛り上げてきたけれども自分たちは何か遺すわけでもない商人たちの、裏方としての「生きた証」としての象徴的交換価値としてではないだろうか。

これは「新しくて古い」作家と「パトロン」とサロンの関係の話とも考えられる。俳句実作に関わらない商人から見れば今も俳句は一種の「芸」ということ。そうだとすればこの立場からみれば明治の宗匠俳諧と平成の俳句甲子園はある種イーブンである。明治の宗匠俳諧のころは大旦那がいて、さまざまな芸達者が周りに集まった例があるが、もはやかつてのような趣味人の「大旦那」は出てこないだろう。今はどのような価値が俳句に求められているのか。今回の句碑建立が悪趣味としても、それ以上の交換価値のあるものを俳句の主体にいる者が外に対して生み出してこなかったのは、果たしていけないことなのか、素敵なことなのか。

(了)

2010年8月27日金曜日

●主体は変容するのか 1/2 橋本直

主体は変容するのか 1/2

橋本 直


俳句甲子園の句碑ができたそうで。 →参照

なんというか、終わりの始まり?神社仏閣にある碑といえばだいたい戦没者慰霊碑とか歌碑句碑の類であるが、前者は文字通り流された血の浄化のためでわかりやすい。後者は調べると本当に色々経緯があって、場合によってはちょっとあやしいものもある。件の場合はどうなんだろうかと思いつつ俳句甲子園ググっていたら、実行委員長が地元の同期と同姓同名だ。あれ、本人かもしれん。世間は狭い。

それはそうと、「俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園」(角川学芸出版)も出た。こういう本を出すことをどうこういう立場にはないが、このやり方をするのなら、まだまだ俳句甲子園を良く知らないであろう多くの読者層を考慮し、岩波新書『琵琶法師―〈異界〉を語る人びと」みたいにミニDVDとかで実際の映像つけて出すべきだったと思うのだがどうだろうか。傍目で見ていて、俳句甲子園には活字では絶対に伝わらない熱さがあると感じるのだが。

俳句甲子園については、先の句碑もそうだが、大人の思惑や反応はいろいろあるもよう。が、そのいろいろはあるにせよ、平成の俳句史において良い俳人を生み出したことはもはや動かないと信じたい。ただ、世の認識がそうなったときにできあがる序列階層化を、元祖の甲子園のように時折は意外性が打ち消して行けるかどうか。そしてかの本に載ることのなかった無名の高校生たちがもつ負け組意識を、まったくかえりみないで勝ち残った優れた若者やイベントの成功にのみ飛びついてわあわあはしゃいでいるだけの大人がいるのなら、状況として相当に気持ちが悪い。教育の一環として参加する高校生がそれ故に真剣に取り組むことになった俳句でリアルにおちこぼれ意識を持つのみで終わるのってまことに卦体な話である。これを少し考えてみたい。

ここのところ週ハイでも俳句甲子園に関わる記事がでている。

山口優夢さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

関悦史さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/6-21.html

俳句甲子園特集
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/174-2010822.html

山口氏のはきれいに纏めすぎで、学問的にはだいたい自己神話化を疑われる体のものだが、非常に貴重で面白い証言である。関氏の時評はさすがの切れ味。最後のはいろいろバラエティに富む内容。

さて、関氏が例の角川のムックの夏井いつき氏の記事を引用し「俳句甲子園というプラットフォームの設計がうまく行ったからこそ参加者はそれを楽しみ、イベントが公共性を持つことにもなり得たのだ。権力といえば即ち悪と発想が短絡しかねないのだが権力装置自体は科学技術と同じで使いようによるという面もあるのかもしれない。」と書かれている部分と、先の記事で山口氏が如何に「俳人」になっていったのかをあわせて読むと、なかなか味わい深い。

例によって、この手の権力装置の問題は、フーコーのパノプティコンを引用しいろいろ論じられるが、俳句甲子園と高校生の間をつなぐ学校教育の諸制度内部にももちろんこれと同様の問題は指摘できるのであり、俳句甲子園に参加する「高校生」をひとくくりにしてできあがった一作家の習作期レベルのようにあつかって、物語(神話)化した語りの視点で見てはいけないだろう。例えば振る舞いとしてプラットフォームの内部にいることを楽しみはじめたものの、はみ出た/出された者は、ゲーム会場から退場するしかないのか。あるいは、その周縁に潜み権力の反転の機会を伺うことになる運命なのか。

立ち読みですませてしまった(関係者の方ごめんなさい)ので、関氏の記事中引用された夏井いつき氏の記事そのものは読んでいないから、どのくらい書いてあるのかしらないけれども、夏井氏は俳句甲子園のはるか以前にそのころ流行っていた「詩のボクシング」をまねて学校で俳句の実践授業を行っており(『夏井いつきの俳句の授業・子供たちはいかにして俳句と出会ったか』参照)、夏井氏のこの実践のフィードバックが今の俳句甲子園に行き着いたものと私は理解している。俳句甲子園の胎動が氏が俳句で食う決意を持って教職を離れたことと、もともと授業の方法の模索の中からはじまったことは気にしておく必要があるだろう。

(明日につづく)