2014年1月31日金曜日

●金曜日の川柳〔中島紫痴郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼のない魚となり海の底へとも思ふ

中島紫痴郎 (なかじま・しちろう) 1882~1968

何があったのだろう。かなり心が疲れている。人として、陸(この世)に生きていくのがしんどくなったのだろう。いっそ、魚になって、海で生きたい。が、それ以上に深刻である。単に「魚」ではなく「眼のない魚」、単に「海」ではなく「海の底」なのだから、ここまで思うのはかなり重症のはずである。しかし、「とも思ふ」である。そういうことも思ってみたりするということなのか。ずらしかたがおもしろい。

中島紫痴郎は明治期の新傾向川柳の代表的な作家。新傾向とは古川柳以来の客観性と没個性を脱して、作者の個を表出しようとした川柳で、新しい領域をひらき、川柳近代化への先駆となった。

若山牧水の短歌に〈海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり〉がある。〈流れ行く水の素直さじっと見る〉〈こんな川の水でも海に行くのだぜ〉「矢車」(第25号 明治44年4月発行)収録。

2014年1月29日水曜日

●水曜日の一句〔野口る理〕関悦史



関悦史








霧雨やたとへ話に天使の胃  野口る理

何に対する比喩なのかも判然としないまま、ある何かを唐突に「天使の胃のようなものです」と言われたとき、われわれはそれをどう受け止めればよいのか。

さしあたり考えられるのは、この突拍子もない比喩が何を指して用いられたのかを同定するという対応であり、句には「霧雨」という季語が一句の核として呈示されているのであってみれば、「霧雨」と「天使の胃」との間にいかなるアナロジーが介在し得るかを探ってみるのが、常道ではあろう。

しかし非実体と思われる天使に、はたして臓器や肉体があるものだろうか。

キリスト教圏には天使学の鬱然たる蓄積があり、天使が重さを持つや否やといったことについてまで真面目な議論が積み重ねられてきているらしいのが、極めて身軽で敏速な言葉運びを持つこの句が、そうしたものへの鈍重な参照を要求しているとも思えないため、この問いはただちに失効する。

そうではなく、天界と人界の間を浮遊する非実体なものの中の消化器官という矛盾した関係を示すこのイメージは、さしあたりこのまま受け取られなければならない。

すると「天使」の非実体性と「胃」の実体性との関係はただちに「霧雨」へと波及し、「霧」の非実体性と「雨」の実体性との曖昧な混成を喩えたのが「天使の胃」なのかと思われもして、霧雨に包まれることが、そのまま天使の胃に収まることであるかのような、輝かしくも奇妙なイメージへと転換し、そこにこの句の詩的核心があるのだろうと、一応得心してしまいそうにもなる。

しかし一様に広がる粗密の差でしかない霧雨と、器官である胃の確然たる領域性・機能性との間には、何か慣れ合うことを許さない違いがある。その上、霧雨は「や」で隔てられて、「天使の胃」を含む七五とは別の次元にあり、直結はしないのだ。

そうしたずれをあっさりと乗り越えて「霧雨」に「天使の胃」なる比喩を持ち出す野口る理的主体の突拍子もなさを玩味すればよい句であるとも見えるのだが、たとえ話として持ち出されているということは、逆にいえば喩えられた当のものは「天使の胃」ではないということである。

「これは天使の胃ではない」というラベルと曖昧な関係をとりむすぶ「霧雨」。気軽にとりむすばせる野口る理的主体。

ここまで来ると、この句の気まぐれな敏速さを決定づけているのは「たとへ話」の一語なのだということが鮮明になる。

「天使の胃」が、例えば劇画のタイトル『天使のはらわた』のような形で作者から読者へ直接呈示された重いメタファーとなることを回避し得ているのは、「はらわた」と「胃」の軽重の差もさることながら、「たとえ話」の一語が句中に入ってしまっているためなのである。媒介性を担っているのは「天使」よりも「たとへ話」なのだ。

さらに、この作中主体は「たとへ話」を発しているのか、聴いているのかもわからない位置に、確然と浮遊している。

アナロジーから洩れ落ちる身体的残余としての「胃」と、浸潤な外界としての「霧雨」が、それぞれ身軽で明確な項目のひとつであり、同時に生々しい謎の物件でもあるという矛盾を平然と担えるのは、こうした曖昧で錯綜した関係がそのまま明晰な言葉へと置き換えられているからである。


句集『しやりり』(2013.12 ふらんす堂)所収。

2014年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔榮猿丸〕相子智恵

 
相子智恵







雑居ビル窓の一つに干布団  榮 猿丸

句集『点滅』(2013.12 ふらんす堂)より。

〈雑居ビル〉というのが都会の、しかも場末のチープな感じをよく伝えている。雑居ビルなど俳句にはまず詠まれることのない建物だが、実際にはよく見る風景だ。小さな飲み屋や怪しい金融業の事務所、風俗店などがテナントとして入っているのだろう。そのビルの窓の一つに布団が干してある。きっと日当たりも悪く、布団を干しても乾かないような窓だ。

布団は生活のもっとも身近な道具であるが、干されているのが雑居ビルの窓だと思うと、隠微で貧乏臭く、哀愁が漂ってくる。〈しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ 河野裕子〉の健康的な家族の布団とは真逆の、家族と縁を切った大人が寝ている湿っぽい布団が思われてくるのだ。一人か、あるいは男女二人が一緒に寝ている一枚の布団。

掲句はまず雑居ビルという全体を見せてから、窓の布団という一点にぴしりと焦点を当ててゆく、構造のしっかりとした写生句である。その明確な構成で、いままで詠まれてこなかった現代的でチープな材料を詠むと、こんなにもクリアに、現代の私たちが住んでいるリアルな世界が立ち上がるのだ。

2014年1月26日日曜日

【俳誌拝読】『星の木』第12号

【俳誌拝読】
『星の木』第12号(2014年1月20日)


A5判、本文20頁。同人4氏の俳句作品より。

  凩や我が青春の赤電話  大木あまり

  残る虫残りて我に親しけれ  石田郷子

  大寺のそのもろもろの木の葉かな  藺草慶子

  高きより岩づたひなる木の葉かな  山西雅子

(西原天気・記)





2014年1月25日土曜日

●妹




凭るるは柱がよけれ妹よ  澤 好摩

いもうとを蟹座の星の下に撲つ  寺山修司

妹の泪ふくらむ豊の国  穴井 太

妹が目を閉じ蜜柑咲くおかしな迂路  宮崎二健

いじめると陽炎になる妹よ  仁平 勝