ホトトギス雑詠選抄〔25〕
夏の部(七月)七月・上
猫髭 (文・写真)
水無月や青嶺(あをね)つゞける桑のはて 水原秋櫻子 大正14年
七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 山口誓子 昭和2年
那珂湊は、まだ暗い四時ごろから鴉が鳴き始める。それに呼応するかのように時鳥も鳴き始める。雨は降っておらず、空には群雲を縫って梅雨の月がかかる。雀も鳴き出した。鶯は今日は聞こえない。きゅるきゅるという声は椋鳥である。海鳴が聞こえる以外は、谷戸の朝と変わらない。五時ごろ、梅雨の月が明るさに白くなりかけた頃、矢の字に海へと飛ぶ鳥たちがいるので、雁かと思えば、羽ばたきが忙しないので海鵜だった。逗子では鳶である。やがて、日が登り始め海が暖められると、海霧が海から湧くように潮に乗って上陸して来る。
「海霧(うみぎり)」は夏の季語で、梅雨時は、夜明けと共に海霧が海鳴と潮の香を曳き連れて那珂川を遡り、海門橋(かいもんばし)を消し、涸沼川へと平戸橋を越えて、常澄村(つねずみむら)まで霧に沈むのは那珂湊の風物詩である。寒冷地では「じり」と呼ぶが、那珂湊では靄がかかると言う。
那珂湊は六月一杯で底引網漁が二ヶ月禁止され、八月一杯定置網である建網(たてあみ)漁だけになるので、七月一日から魚市場は水揚げも少なくなる。
競りを覗きに行くと、肝の太そうな大きなするめ烏賊が入っていて、顔見知りの魚屋「魚徳」の親爺さんがいたので、烏賊の塩辛を頼んだ。するめ烏賊の肝が太るのは冬なので、烏賊の塩辛は夏は季節外れなのだが、例外のない原則はない。逗子の小坪の鯖は回遊魚の癖に回遊しないで棲み付いているので一回り太く、釣り上げれば背の模様が金色をしているので、我々は金鯖と呼んでいる。するめ烏賊にも夏に肝が太る奴が居てもおかしくはない。「魚徳」の烏賊の塩辛は獲れたての烏賊を塩だけで作る塩梅が絶品で、身がごりごりしていて、飯の肴に、酒の当てに、こたえられないうまさなのだ。お茶漬けがまたいい。普通の塩辛は色が変わった死後硬直後の烏賊だから、お茶漬けにすると身が縮んで溶けてしまうが、ぴかぴかの烏賊で作った烏賊の塩辛はアルデンテの塩辛と言ったらいいだろうか、歯ごたえがあって後を引く。獲りたて作りたての塩辛でなければ味わえないから、目の前に魚市場があればこその海の幸である。
霧で競りが遅れそうなので、家に戻り、昼網で揚った真子鰈を一匹、これも馴染みの魚屋「角屋」の女将から刺身にするために買い付ける。ここも地物をメインに扱う。真子鰈は夏場は平目よりも高い、鮨では白身の代表のネタである。粗も勿論、潮汁(うしおじる)か、味噌汁仕立てにするために貰う。綺麗な脂の、いい出汁が出るのである。
こうして、那珂湊の七月の海は霧とともに始まり、建網に今日は何がかかったのかと相談しながら、七月の日々を海へ繋ぐ。
掲出句は、「ホトトギス雑詠選集」(昭和14年版)の「七月」の最初の「七月」と「水無月」の句である。一読してわかるように、「水無月」と「七月」の違いはあるが「青嶺」と取り合わせるのが「桑畑」か「溶鉱炉」かの違いだけである。秋櫻子も誓子も、秋櫻子が昭和6年に「ホトトギス」を去り、誓子も昭和10年に「ホトトギス」同人のまま秋櫻子の「馬酔木」に参加するまで、虚子選のもと、ふたりとも「連作」に励んで、高野素十や阿波野青畝ら、いわゆる「四S」で「ホトトギス」巻頭を競い合っていたから、誓子が秋櫻子の句を知らなかったわけはない。お互いの持ち味の出た句だと思う。
水無月や青嶺(あをね)つゞける桑のはて 秋櫻子 東京
秋櫻子の句が「七月や」では、「水無月」という陰暦六月の瑞々しさが出ない。「みなづき」の「な」は、連体助詞であり、本来は「の」の意味で、水の無い月という意味ではない。【「水の月」「田に水を引く必要のある月」の意】(『国語大辞典』)である。また、文芸上の美意識にこだわった秋櫻子が「七月」という即物的な詠み方をするはずもない。大正14年の秋櫻子の巻頭句には、
高嶺星蚕飼(こかひ)の村は寝しづまり 6月号
夜の雲に噴煙うつる新樹かな 7月号
といった代表作も含まれる。連作を試みたり、光と色彩を詠み込んで写生を超えようとして苦心していた時期でもある。
七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 誓子 在九州
対して誓子の句が「水無月」では、「や」といった古典的切字を超え、和歌の伝統美の「雅」を超えて、新しい硬質な叙情を求めた誓子の現代性が出ない。定型俳句を遵奉しながらも、昭和10年、「その正統なる発展としての新興俳句を飽くまで守備し、この保塁に最後まで踏みとどまることを誓ふものである」(『黄旗』序)という覚悟を以って誓子は「ホトトギス」を離れており、山口青邨が昭和3年に「四(しい)S」と、ホトトギス社の講演会で命名していた頃、連作によって新しい俳句を模索していた誓子には「水無月」という情緒を採る気は毛頭なかったと言っていいだろう。昭和2年11月号の巻頭もまた連作である。
露の花圃天主(デウス)を祈るもの来たる
釘うてる天主(デウス)の手足露の花圃
露の花圃神父童に語ります
主の前の日焼童に聖寵(ガラス)あれ
旅びとや夏ゆふぐれの主に見(まみ)ゆ
秋櫻子と誓子は後に師弟となり、また離れるが、ともに大正と昭和の違い、というか近代と現代の違いを見るような、写生を経た新興俳句の個性を感じさせる作風が垣間見られる。「四S」と呼ばれた時、秋櫻子37歳、誓子28歳であった。ちなみに、青畝は30歳、素十は36歳であった。
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