【裏・真説温泉あんま芸者】
どんどん俳句的じゃなくなっているかもしれない日常
さいばら天気
某日。ふだんあまり行かない句会に参加させてもらう。二次会で若者がツイッターでの発言に慎重であることを聞き及び、「あんなもの、誰も読んでないんだから、気にする必要ない」と述べたところ、横から女流俳人が「あんたは無防備すぎ」。「すんません」とあやまる。
同じ二次会で就職先の決まった別の若者が句集を出す算段の話。「句集どころじゃないだろう。運転免許が先だ」と横暴かつ親身に助言。それだけならまだしも、「では、こうしよう」と句集のタイトルを提案。心のなかで「ふざけるのも、いいかげんにしろ」と自分をたしなめる。
日曜日。『豈 Weekly』が終刊。こういうものはふたつあるほうがいいと思っていた。つまり週豈と週俳。この2誌は方向性やら何やら違うところが多い。終刊は残念だが、100号打ち切りというこのスタイルも週俳とは違う週豈の独自性。週俳は「終わらない」ことを独自性にすべく。
某日。猫が残したゴハンに蟻がたかる。どの隙間からやってくるのか、気がつくと、たかっている。いい解決方法が見つからないので、妻に、「良い考えがある。ウチは猫だけではなく蟻も飼っていると思えばいい」と提案したところ、「それは、いやだ」と、にべもなく否認される。
某日。映画「スモーク」(ウェイン・ワン監督・1995年)をDVDで観て、なぜか、最愛の歌詞「銭のない奴ぁ、オレんとこへ来い。オレもないけど、心配すんな」(ハナ肇とクレイジーキャッツ)を思い出す。歌詞の続きは「見ろよ、青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろう」。
某日。同人「豆の木」やオンライン句会でご一緒している月野ぽぽなさんの現代俳句新人賞受賞の報。受賞作「ハミング」より「毛皮より短きいのち毛皮着る」「手紙読む月の樹海をゆくように」「みずうみは凍てて翼の昏さかな」。週俳にも、ぽぽなさんの10句作品「秋天」が。
某日。平山夢明『DINER』(ポプラ社・2009年)に故・山本勝之への献辞があることを知り、購入。めくると、あった。「山本勝之氏の愛とでたらめに捧ぐ」。そうなのだ。週俳に残された彼の文章も、私が知っている彼も、まさしく「愛とでたらめ」そのものなのだ。
ふと「水着」ということばを思いつき(dedicated to 七曜俳句クロニクル)、ウラハイに6句の極小アンソロジー、というのは嘘で、ウラハイは事前の仕込みが毎日正午に自動アップロードされるしくみ。冬のアンソロジーをいま思いつくのもオッケーという、これはbloggerの便利な機能。
グレープフルーツの果肉の色。2010年7月24日夕刻の月はそんな色。晩御飯を済ませてから、近くのシネマコンプレックスへ。「告白」(中島哲也監督)を観る。夜中にクルマで出かけるシネコンは、Tシャツにジャージというアットホームな恰好で観られるのがうれしい。
2010年7月25日日曜日
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4 件のコメント:
>最愛の歌詞「見ろよ、青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろう」。
驚き!実はわたくしもそうです。現実は「はい、それま~で~よ~」なんですが。クレーイジー・キャッツのシングル盤はみな持ってます。植木等のあの明るさ。あれでどれだけ救われてきたか。いまもなお。
おっ! ご同輩。
それにしても、なかなか植木等のようには生きられません。
もうなさっているかもしれませんが,蟻の再到来を防止するには,蟻の通ったと思しき場所を台所洗剤で拭き掃除すると良いと聞きました。
蟻が仲間への目印のためにつけた蟻酸が残っていると,何度でもやってくるそうです。
おお! ご親切に。
今度やってみるです。
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