上野葉月
2011年3月10日寄稿
句会で「高得点句に名句なし」という言葉を耳にすることがある。言われてみれば名句かどうかはともかく、一点句や無点句に面白い句が多く感じられることは珍しくない。
けっこう状況に即した言葉だとは思うのだけど、かえって不安な気持ちになるのは何故なのだろう。
どうした理由なのか判然としないのだが私は幼い頃から「少数意見が常に正しいとは限らないが多数意見は常に間違っている」という思い込みが強かった。
仮に多数意見が常に間違っているのなら、議会制民主主義は常に間違った政策に傾くわけだから、世の中どんどん悪くなっていくのも不思議ではない、そんな暗い気分を抱えていたことを思い出したりする(考えてみればちょっと変な子供だ)。
長じて「民主主義は最悪のシステムだ。しかしそれ以外の全ての物よりマシだ」という(たしかチャーチルの)言説に出会ったときはずいぶん救われたような気分になったものだ。
チュ ニジアの政権があっけなく倒れて以降、中東各国に騒乱が伝染したとき、一部マスコミがあれを民主化デモと報道したのには、もういくら何でもというか、突っ 込みどころが多すぎてどこから突っ込んで良いのやらと、さすがにバカな話に耐性の強い私ですら途方に暮れてしまった。
マスコミ(特に日本)の報道が偏向しているのは昨今始まったことでもないので、突っ込むのは諦めて、現代中東に関する印象を徒然に書いてみたい。
私は十代の時にイラン革命に遭遇した世代なので、そのせいか二十世紀の代表的な政治家というとまずアヤトラ・ホメイニを思い出す。
他 にも中東系で思い出す政治家は多いのだけど、その中で特に印象的だったのは先代のヨルダン国王、フセイン1世。1999年にリンパ腫で亡くなったときまだ 60過ぎたばかり若さだったのには改めて驚きを覚えた。何しろ在位期間40年以上にのぼるわけだが、即位したのがまだ十代だったことを思い出せば別に不思 議がる理由もない。
フセイン1世が歴史に登場するのは1951年、トランスヨルダンの初代国王、祖父アブドゥッラー1世がエルサレムでの 金曜礼拝の際に暗殺されたときに遡る。祖父と共にいた少年フセインも銃撃を受けたが、胸に掛けていた祖父から授与されて間もない勲章が銃弾をはじいたため 一命を取り留めたとされる。まるでマカロニウエスタンのような展開だがどうやら実話らしい。
なにしろ聖なる予言者の末娘ファティーマと第四代カリ フ・アリーの血を引く中東一の名家ハシミテ王家の王子なのだからこの程度の僥倖を奇跡呼ばわりするのは不敬かもしれない。そう言えば後年、シリア上空を飛 行中に国籍不明の戦闘機に攻撃された際、自ら操縦桿を握って追撃を脱出したなんて話もある。今時ハリウッド映画だってそんな王様は出てこないよというよう な展開ではあるがこれも実話らしい。
ともあれ祖父の暗殺から一年後に即位した少年が引き継いだ王国は、ある意味エルサレムに近すぎた言え る。1948年のイスラエル建国宣言から数年、今後中東がいかなる方向に進むかまったく不明な中、戦闘だけはおさまらず、自国民よりパレスチナ難民の方が 領土内での人数が上回る、当時の地球上でももっとも不安定な王国だった。まさかこの少年がその後40年以上の在位を全うするとは、当時どんな楽観的な人物 も期待しなかったのではないだろうか。
同じくハシミテ王家のファイサル1世(『アラビアのロレンス』で有名)は第二次大戦前にシリアをすでに失っ ており、大国イラクの統治者ファイサル2世(ファイサル1世の孫でヨルダンのフセイン1世のハトコ)には、1956年にスエズ運河国有化に成功し、アラブ 諸国のみならず第三世界で広く英雄視されたエジプトのナセル大統領の主導する汎アラブ主義の影響力が強大だった時期1958年に軍部のクーデタにより王族 多数と共に宮殿で射殺される運命が待っていた。
ちなみに今日のエジプト情勢に世界が過敏に反応するのも、エジプトがアラブ諸国最大の人口を抱えて いるからばかりでなくかつてナセル大統領を生んだ汎アラブ主義の総本山だからでもある。リビア情勢が内戦化し緊迫の度合いを高めているのも、エジプトから 衆目を逸らすために英米が必死に工作しているようにしか見えない(邪推かもしれないが)。
一方、イスラエルは1950年代60年代と既成 事実を積み重ね地盤を固めつつあり、それにともないパレスチナ難民も増加しつつあった。やがてヤセル・アラファト率いる武闘派ファタハがPLOの実権を握 ることとなった1969年にはヨルダン領からのイスラエルへの攻撃が激増する。
それに対し1970年には歴史に大きな爪痕を残したヨルダン国王フセイン1世によるPLOへの徹底的な弾圧が決行された。
フセイン国王の脳裏からはおそらくエルサレムで暗殺された祖父の姿が終生離れなかったと思えるが、血で血を洗うとはまさにこのことである。ヨルダン国王はイスラエル以上にパレスチナ人の殺したと評され、屠殺人とまで呼ばれることとなる。
フ セイン1世に対する評価はその人の置かれた政治的な立場によって大きな振れ幅があるのはもちろんだが、彼がおよそ統治者として遭遇し得るありとあらゆる困 難を乗り越えて40年以上の治世を全うしたことは疑いない事実だ。この長い治世の間ヨルダン国民の生活は全般的な向上を見たため国内的な評価は概ね名君と 言って差し支えないものであるらしい。よそ者に過酷であり自国民に対して寛容、ある意味、王らしい王なのかもしれない。
かたやパレスチナ の指導者アラファト議長も天寿を全うした。ファタハを率いるようになった時から数えれば42年。その間ずっとナンバーワンであり続けたわけだがナンバー ツー以下およそPLOの幹部と呼べるポジションにいた人間のほとんどは戦死または暗殺の憂き目にあっている。交渉窓口のトップが変わることを敵方が嫌うと いう事情も鑑みなければならないだろうが、アラファト議長がエルサレムの名家フサイニー家の出身であったことにも預かる部分があるように思う。元来フサイ ニー家がハシミテ王家と関係の深い一族であることを考えると何かしら因縁めいたものを感じる。
(明日に続く)
●
0 件のコメント:
コメントを投稿